横浜公園水琴窟の謎から浮世絵で港崎遊郭の歴史を紐解く
ココがキニナル!
スタジアムがある横浜公園内に水琴窟がありますが、なぜあそこに水琴窟があるのでしょうか?(浜っ子おじさん)
はまれぽ調査結果!
横浜公園の水琴窟の謎を探ることをきっかけに、開港期横浜の一大遊興場だった港崎遊郭が外国人「おもてなし」の原点であったことが浮き彫りになってきた。
ライター:結城靖博
大門に続く道はどこか?
遊郭と開港場の位置関係は、現在の海岸通り一帯から横浜公園までの位置関係とほぼ同じだ。同時に、大門へ通じる道が直角に折れていることから、開港場からの道は、海岸通りから横浜公園を直線的に結ぶ現在の日本大通りではないこともわかる。
スタジアムも含む横浜公園全体が港崎遊郭だったのだから、大門は現在の尾上町(おのえちょう)通りからスタジアムへ向かう公園の入り口あたりではなかっただろうか。
ここに大門があったのか?
また、尾上町の交差点が「くの字」の角で、海へ向かう関内大通りが開港場へ通じる道だったのでは?
尾上町の交差点から関内大通りを海側に臨む
筆者の仮説。青いラインが開港場と遊郭をつなぐ道か © OpenStreetMap contributors
港崎遊郭へ潜入取材敢行!
推察はそのぐらいにして、ふたたび時間を逆巻きし、遊郭の中へ足を踏み入れてみよう。
五雲亭貞秀「神奈川横浜新湊港崎町遊廓花盛之図真景」1860年(横浜市中央図書館所蔵)
上の絵は遊郭の内側から大門方向を描いている。通りをそぞろ歩く人々の中には、はっぴを着た町衆風情の男たちもいる。遊郭内は桜が満開。どうやら皆さん花見を楽しんでいるようだ。
そう、ここ港崎遊郭は、居留外国人の慰安や商人たちの接待の場であると同時に、昼間は一般庶民が遊覧する観光スポットでもあったのだ。
二代歌川広重「横浜岩亀見込之図」1860年(横浜市中央図書館所蔵)
上の1点は、もっとも豪華だった遊女屋「岩亀楼」の内部を描いたもの。左手前に欄干にもたれて池の向こうを眺める町人風の男がいる。男が見つめる先、左奥の室内では、外国人が遊女に囲まれて食事中だ。
岩亀楼では、なんと昼間は見物料を取って一般庶民に屋内を観覧させていたという。
きっと見物客たちは、簡単に対面することはできなかった花魁(おいらん)の艶姿に思いを馳せながら、建物の内部を巡っていたことだろう。
しかし見物料は安くなかった。金百疋(ぴき)というから、今の貨幣価値で1万円近い。
二代歌川広重「横浜岩亀楼上」1860年(横浜市中央図書館所蔵)
一方、上客である外国人は、広間のような一室で芸妓たちの舞を椅子に座って鑑賞中。下の絵には題名に「子供」とあるので、舞っているのは15歳前後の半人前芸者「半玉」(はんぎょく)たちだろう。
一川芳員「横浜岩亀楼子供手踊之図」1861年(横浜市中央図書館所蔵)
行儀よく椅子に座って踊りを見ている外国人たちも、やがて酒盛となり興が高じれば下の絵のようなありさまに。三味の音に合わせて浮かれ踊る者1名。これではお堅い外交官が「ヨーロッパの掃きだめ」と眉をひそめたのも無理はないか。
一川芳員「横浜港崎廓岩亀楼異人遊興之図」1861年(横浜市中央図書館所蔵)
ところで、岩亀楼を描いた浮世絵の中に面白い作品がある。
二代歌川広重「横浜岩亀楼上」1860年(横浜市中央図書館所蔵)
客が全員、福の神。女神・弁財天は客の前に立っているので接待側の花魁役かもしれない。いずれせよ「ここに来ればみんな福の神になれますよ」と宣伝しているような絵だが、それが七福神であるところが意味深だ。
というのも、七福神は仏教・神道・道教・ヒンドゥー教などバラバラな宗教的ルーツを持っている。開港後横浜に押し寄せた外国人の多様さを暗示しているかのようだ。
その状況をもっとリアルに表した絵が次の1点だ。
一恵斎芳機「五ヶ国於岩亀楼酒盛の図」1860年(横浜市中央図書館所蔵)
画面中央で踊る中国人。それを蘭(紅毛と表示)・英・露の3人が椅子に座って鑑賞中。だが米・仏の2人は、それぞれ別の花魁に色目を使っている。
この絵の中の「五ヶ国」とは、椅子に座る英・米・仏・蘭・露の5人を指すのだろう。踊る中国人は、開港期の日本と欧米の貿易に重要な仲介役を果たした「買弁」(ばいべん)と思われる。この頃の欧米人と中国人との関係をよく表した絵だ。
リアルとは書いたが、浮世絵は写生して描くわけではない。ほとんどが絵師の想像上の産物だ。上の絵のような五ヶ国揃い踏みの光景が事実かどうかは疑わしいが、港崎遊郭がグローバルな遊興場であったことを象徴する1点ではないだろうか。
港崎遊郭の遊女の悲劇
華やかな遊郭の様子ばかりを見てきたが、それはあくまで客の立場に立ってのこと。
港崎遊郭で、今に伝わるもっとも有名な遊女の悲劇は、岩亀楼の亀遊(きゆう、喜遊とも書く)の運命だ。
8歳で吉原に売られ15歳のとき岩亀楼に移された亀遊は、アメリカ商人イルウスに見そめられる。だが、外国人に身を任せることをかたくなに拒む亀遊に対して、イルウスに金を握らされた楼主が彼の一夜妻になるよう命じる。すると亀遊は「露をだにいとう大和の女郎花(おみなえし)、ふるあめりかに袖はぬらさじ」という辞世の歌を残して自ら命を絶つ。今回掲載した岩亀楼の絵のほとんどが制作された1860(万延元)年のことだ。
福田熊次郎「娼妓喜遊之話説」1878年(横浜市中央図書館所蔵)
上の絵は後年描かれた想像図だが、画面右端にイルウスらしき外国人と彼にかしづく楼主らしき男が見える。亀遊の悲劇はこうした絵画などで美談として伝えられ、有吉佐和子も小説にしている。
ただ、この出来事、尊王攘夷派による創作ではないかという説もある。確かに異人排斥を唱える攘夷派の浪士たちにとっては、士気を高めるうえでかっこうの逸話だろう。
だが、仮にこれが作り話であったとしても、身売りされ大門の中に囲われて生きた女性たちには、似たような悲劇が現実に数多くあったにちがいない。
港崎遊郭のもう一つの、そして最大の悲劇
はっきりと史実に残る最大の悲劇、それは港崎遊郭終焉の原因となる大火だ。
時は1866(慶応2)年旧暦10月20日の朝。港崎遊郭の西、現在の尾上町1丁目付近にあった豚肉料理店から出火。そのためこの大火は、「豚屋火事」とも呼ばれる。
火はたちまち港崎遊郭全体に燃え広がり、さらに外国人居留地や日本人商人街にも延焼し、夜遅くようやく鎮火する。
「武州横浜湊焼場方角図」(横浜市中央図書館所蔵)
上の図を見ると、開港場がどれほど広く焼き尽くされたかがわかる。この火事で港崎遊郭の遊女は、実に400人以上焼死したという。
火事の2年前、幕府は居留外国人と「大火があった場合は再建しない」という覚書を交わしていたため、遊郭は翌年、吉田新田の沼地に移転する。名称は「吉原町遊廓」(現在の中区羽衣町付近)。
こうして、束の間強い光芒を放った「港崎遊郭」は、わずか開業後7年で幕を閉じた。まだ明治は数年先の幕末横浜ストーリーである。
一方、港崎遊郭の跡地は火事から10年後の1876(明治9)年、日本初の洋式公園に生まれ変わり、現在の横浜公園へとつながっていく。
取材を終えて
「浜っ子おじさん」のおかげで、開港期の世相史に欠くことのできない「港崎遊郭」について、正面から光を当てることができた。
豚屋火事で港崎遊郭が失われた後、横浜の遊郭地がどんな変遷をたどったかは、過去記事「かつて高島町に遊郭があったってホント?」や「中区曙町に風俗店が多いのはなぜ?」で詳しく紹介されているので、ぜひそちらをご覧いただきたい。
それにしても、国内有数の風俗街を抱える横浜の原点が、開港期の外国人への「おもてなし」にあったと知ると、オリンピックを翌年に控える2019(令和元)年の今、なんともビミョ~な気分になる。
こちらは来年の「おもてなし」の舞台の一つ、横浜スタジアム
―終わり―
取材協力
横浜市環境創造局南部公園緑地事務所
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/org/kankyo/soshiki-gyomu/nambukoen.html
横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
【参考資料】
『錦絵 幕末明治の歴史② 横浜開港』小西四郎著、講談社発行(1977年3月刊)
『浮世絵師たちが描いた明治の風俗』河出書房新社発行(2018年6月刊)
『横浜150年の歴史と現在』横浜開港資料館編、明石書店発行(2010年5月刊)
かまくライダーさん
2019年09月17日 12時54分
大門の場所は合ってます。海からの道は尾之上町まで行かず、現代のみなと大通りですね。
Kitkatさん
2019年09月17日 00時35分
中央図書館所蔵の貴重な資料も沢山載せていただき、大変楽しく読みました。岩亀楼でのどんちゃん騒ぎ、「千と千尋の神隠し」の湯屋のシーンを思い出しました(あれも同じ目的の店ですものね。)新開地で一旗あげようと国内国外から横浜に乗り込んできたひとたち、それを相手に巻き上げてやろうと商売する人たちの熱気が伝わるようです。ライターの結城さん、よい記事をありがとうございました!
部長さん
2019年09月16日 14時15分
興味をそそられ読み応えがある記事でした。本題はアッサリしているのですが、その後の展開が面白かった!はまれぽココにあり!横浜の遊廓跡地は数多くあるのでネタ切れの時に小ネタ記事にでもして欲しいです。100点差し上げる!