みなとみらいは昔、どんなところだったの?(前編)
ココがキニナル!
みなとみらいって昔はどんなだったんですか?(ハ毛さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
みなとみらいができるまでは造船所だった。その名残であるドックヤードがランドマークの脇に残っている。
ライター:松崎 辰彦
「六大事業」がみなとみらいの原点である
(続き)
1981(昭和56)年に、事業の名称として「みなとみらい21」が一般公募で採用され、1983(昭和58)年11月、みなとみらいの事業が着工される。
みなとみらい21事業着工式 横浜美術館予定地において、細郷道一市長らが出席
(横浜市史資料室広報課写真資料)
現在総面積186ヘクタールのみなとみらいだが、その中の76ヘクタールは1983(昭和58)年以降の埋立工事によって獲得したものである。
埋め立てが進むみなとみらい 1985(昭和60)年11月3日
(横浜市史資料室広報課写真資料)
青い部分が臨海部土地造成事業で形成された土地
『みなとみらい21インフォーメーション』(〈社〉横浜みなとみらい21他 企画・発行)より転載
1985(昭和60)年、文部省の航海練習帆船「日本丸」が横浜造船所の1号ドックに展示され、「日本丸メモリアルパーク」となる。
日本丸が係留されている日本丸メモリアルパーク
1989(平成元)年3月25日、横浜市制100周年・開港130周年を記念して横浜博覧会が開催される。
同月、JR桜木町駅前広場と横浜博覧会桜木町ゲートを結ぶ「動く歩道」が完成する(現在でもランドマークタワーへの通路として稼働している)。
多くの人が利用する「動く歩道」
同年5月には中央地区の広範囲における町名および住居表示が「みなとみらい」に決定された。
取材を終えて
みなとみらいは美しい都市である。しかしそこにはかつて無骨な造船所があり、幾多の船を造り出していたことを今回の取材で学んだ。
人に歴史があるように、街にも歴史がある。後編では、ランドマークタワー誕生を中心に、みなとみらいの歴史を見つめていきたい。
─終わり─
参考文献
『みなとみらい21インフォメーション』2012vol.83 横浜市都市整備局みなとみらい21推進課・横浜市港湾局資産活用課・(社)横浜みなとみらい21
『横浜みなとみらい21 ─創造実験都市─』(株式会社横浜みなとみらい21)
高木彬光『「横浜」をつくった男』光文社
『季刊誌 横濱』P52~P54「幕末・明治初期のみなとみらい」西川武臣
2011年夏号 神奈川新聞社
他
横浜みなとみらい21公式ウェブサイト
http://www.minatomirai21.com/
横浜市港湾局
http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/
デス男さん
2018年01月23日 09時16分
高島埠頭が、まだ高島桟橋だった時、よく釣りに行ってたなぁ。日曜日に、朝早くから夕方まで釣り糸を垂らしていたのも、いい思い出だなぁ。
pochikikunさん
2015年09月18日 13時01分
父親が造船所で勤務していたので、何回か進水式に連れって行ってもらいました。最後の進水式も見に行きました。タンカーが多かったですね。今でもドッグガーデンに行くと思いだします。
OKKUNPAPAさん
2015年04月29日 15時43分
昔、父親が横浜製作所で働いていました。花咲橋が最寄りのバス停だったかな?その後は本牧と金沢を行ったり来たりでした。日本丸が係留される時も携わり、船員の人に『古い船だからね、夜になると…笑』と脅されたと話をしてしまいました。そんな父親も70を越えていますが、今もパートで修繕船の現場監督をしています(船が多数ドッグ入りの予定が入ると電話で呼び出される) 横浜博覧会の会場でもありましたね(会場内の水路に落ちたのは僕で、その後周りにロープが張られました。)学生時代はデートでよく遊びに行き、今は子供を連れて遊びに行きます。川崎や都内と違い、開放感があり臨港パークや汽車道など買い物以外に使えてとても魅力的な街です!