中世の名残を求めて、鎌倉街道を踏破-中の道3-(横浜市立本郷台小学校〜)
ココがキニナル!
鎌倉街道、大山街道などの街道を踏破して下さい。(jckさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
舞岡公園の前後は新しい住宅街のなかに消えかけた旧街道だが、日限地蔵尊裏手、下永谷駅西側山中では緑豊かな細道や未舗装区間に大いに興奮
ライター:永田 ミナミ
かえってきた趣
さて、日限地蔵尊裏手の道へと入っていくと
さっきまでの整然とした雰囲気とは違う、あの趣がかえってきた
さらに『中世を歩く』によるとこの細道が旧鎌倉街道というんだからたまらない
というわけでいざ、鎌倉街道
階段を降りると左側の緑がぐっと迫る
旧街道を歩くときの楽しみとして、こういう写真を撮る今日このごろ
上のような現代の要素が入らない写真を撮ってみると、古の人々も同じような風景を見ていたのではと思えてきて気持ちが盛り上がるのであった。
そしてこのあたりはこんなふうに道がつながってたのではと想像
ただしこの細道は130メートルほどで日限山地蔵尊の表側を通るバス通りに出てしまう
しかし戸塚方面に左折するとすぐ見える下永谷駅入り口交差点を右に曲がり
曲がってすぐの角をまた左に曲がって
その坂を上り
道に沿って右折すれば
再び気分は時代をさかのぼり
古の扉をたたくように
緑にかこまれた細道へと入り込んでいくのだった
しかもこの細道、進んでいくとまもなく
舗装が途切れてそれはもう大興奮の古道感
そして点在するごみに目をつぶればまたもや中世へと誘う風景が広がる
と感慨にふけるも、今日の日本に誰のものでもない土地などないのだった
その先で舗装道路も復活し足元も現代に舞い戻り、260メートルの時間旅行は終わり
さすがにこうなってくると気分についてのコメントは差し控えて安全第一
そして台風に吹き散らされた枝葉がきれいに掃除された先に細道の出口が見えてきた
道は完全に左折する雰囲気だが、直進方向に車止めがあるということは
通れる道があるということで
この舗装云々どころではない獣道のような極細道がそう、旧鎌倉街道なのである
と気持ちは盛り上がるのだが、紙面が尽きたので今回はこのへんで。次回は旧街道感全開でお送りします。
―終わり―
参考資料
『中世を歩く』北倉庄一/テレコム・トリビューン社/1998
きよし2さん
2016年11月11日 19時22分
興味深く読ませていただきました。
55年程前、西本郷小学校の帰りに通学路から外れ通った山道が(かまくら道)とは夢のよう。
小菅ヶ谷小学校近くの道標を、発見した時は興奮しました。(現在は持ち去られて有りません)
神倭さん
2016年11月09日 12時04分
お疲れ様です。道の呼称は『ハマッコ』さんに賛成です。今回のルートで2~3補足します。①小菅ヶ谷小学校・鉄塔の辺り(道の左側)に道標がありました(今はありません)。この辺りを【花立(すりこばち坂)】と呼び、『回国雑記』の道興がこの地で歌を残しています。『ひだるさに宿急ぐやと思うらむ道より名乗るすりこばち坂』 ②舞岡公園南端の庚申塔と道は位置が変わっています。庚申塔前の道を進み公園内に左折しましたが、元はその左折地の右側高台に大きな椎の木に抱かれて庚申塔が立っていました。古道は今の道の西側にあったのです。大きな椎の木も移設され、庚申塔と離されてしまいました。➂前述の左折地点を右斜め前に進む道(金網が開いている)がありました。ここは【かまくら道(中の道)】から【下の道】が別れる処でした。【下の道】はここで別れ餅井坂から弘明寺そして常陸・房総へ向かいます。
ハマッコさん
2016年11月09日 11時06分
呼称についてです。「かまくら道」を「旧鎌倉街道」の表記は止めましょう。「鎌倉街道」は明治時代以降に役所(行政)がつけた呼称であり、「かまくら道」とは全く関係がありません。郷土史を始めた皆さんが先ず、最初に間違われる言葉です。現在の「鎌倉街道」は開港後の「よこはま」へ向けた街道で「横浜道」又は「横浜街道」の方が相応しいと思います。