神奈川区の菅田道路脇にある「道路碑」、どのような経緯で建てられたの?
ココがキニナル!
神奈川区にある菅田道路に「道路碑」という交差点があり、実際に交差点脇に碑があります。残念ながら風化しており、碑の文字が読めないのですが、どんな経緯でできた碑なのか調べて下さい(ビビンバさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
丘陵地帯で交通が不便だったこの地に2本の幹線道路が完成したのを記念し、昭和25(1950)年、その交差点である現在の場所に碑が建てられた。
ライター:河野 哲弥
丘陵地帯を貫く、2本の幹線道路
伊藤会長によれば、この文章は大きく2つに分かれているという。
前半部は、昭和6(1931)年に開通した「小机羽沢線(現・三沢小机線)」について記述したもので、これは横浜市が失業対策として行った公共事業だったとのこと。
まず南北方向に、幹線道路が作られた
後半部は「菅田鴨居線(現・菅田道路)」の記述となり、こちらは農協選出の市議であった鈴木氏の働きかけにより、昭和23(1948)年に開通したそうだ。
続いて東西方向にも、交通の便が確保された
これを記念して昭和25(1950)年、近隣の住民から寄付を募り、「道路碑」が建てられたのだという。
当時、神奈川でも丘陵地帯と言われていた菅田地区には、谷あいを縫うような小道しか整備されていなかったらしい。そこに登場したのが、幅約8メートルの2本の幹線道路。道路の開通により、同地区の交通の便は格段に良くなり、町の発展につながっていったということだ。
そんな「道路碑」だが、まさに碑が建てられたその夜、とんでもない事態が発生したそうだ。なんと、碑のまわりにコンクリートを流し込んで、その一部を埋め込んでしまったイタズラ者が現れたのだ。
よく見ると、不自然に埋まっている「道路碑」の根元
伊藤会長によれば、住民がそのことに気付いたのは、翌朝になってからとのこと。すでにコンクリートは固まってしまい、いかんともできないまま、今に至っているという。
この犯人、後で分かった事だが、寄進者の一人だったようで、碑に彫られた自分の名前の場所が気に食わなかったので、こんなイタズラを思いついたとのこと。なお、その犯人がその後どうなったのかは、伝わっていないそうだ。
改めて、当時の様子を調べてみた
開通当時の写真などがないか、改めて現場の周辺を再訪してみることにした。ふと目に止まったのは、一軒の写真店。店主が趣味で撮った写真など、残っていたりしないだろうか。
伊藤写真店外観、期待して訪問してみる
すると、予想したとおり、当時の写真があるという。そのいくつかは、市や自治体が発行する書籍の資料にも使われているそうだ。
舗装されていなかった、当時の「菅田鴨居線(現・菅田道路)」の様子
(伊藤さん個人所蔵の写真を複写/昭和32年4月)
舗装化されバスも通るようになった、「道路碑」交差点近辺の様子
(菅田東町自治会発行『菅田今昔写真集』より複写/昭和45年ごろ)
店主の伊藤さんによれば、これら両道路は昭和40年ごろ、順次舗装化されていったそうだ。道幅や経路も、ほとんど以前のままなのだという。
そんな両道路だが、現在では、付近を通る県道12号線や県道109号線を使う人の方が多くなってしまったようだ。「道路碑」バス停の時刻表を見てみると、その本数は、日に数本を数える程度であった。
まさに山あり谷ありだった、この半世紀の菅田の変遷。「道路碑」はこれからも、行きかう人をじっと見守り続けていくことだろう。
―終わり―
Yoshibeiさん
2016年03月14日 22時49分
会員登録して、最初のコメントです。この道路碑から徒歩で10分ちょっとの場所に住んでおりますが、こんなスゴイ歴史があったとは驚きでした。ほぼ毎日、この「道路碑前」を通るバスに乗っていますが、今度から先人に敬意を表しながら通過したいと思います。
ushinさん
2013年03月19日 15時25分
昔は、善業を認めて讃える気持ちがあったんだよなぁ。
ときさん
2012年06月08日 12時20分
「日に数本を数える程度」の本数なのは相鉄バスだけで、市営のほうは1時間に6、7本程度の本数で運行していると思うのですが……。