野毛小路にあるアーチの時計が狂っているのはどうして?
ココがキニナル!
野毛小路に2つの時計がかかっているのをご存知ですか?ところが、2つとも現在の時間を表示しておらず、それぞれ「5:48」「11:21」です。時刻に何か曰くがあるのでしょうか。(ジジネンさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
野毛には時計付きのアーチが4基設置されていた。止まっている、あるいは狂っている時計は故障によるもの。12月中に時計は全部撤去される。
ライター:ナリタノゾミ
昭和30年代の野毛小路(つづき)
「加藤彦三商店」の創業者は、現社長の祖父にあたる加藤彦三さん。
1919(大正8)年に戸部にて味噌・醤油の小売りをする個人商店「加藤商店」を創業させたが、2年後に御家騒動により山田町に店舗を移すことになる。この時、店名を「加藤彦三商店」と改め、酒類を扱うようになった。
1945(昭和20)年の横浜大空襲により店舗を失ったため、野毛小路の現店舗と同じ場所にて1946(昭和21)年に再興した。野毛小路での再興が叶ったのは、彦三さんの息子で、現社長の父である栄一さんの妻(つまり現社長の母)の実家、塩田家が酒・米・雑貨商を営む商人として古くからこの場所に店舗を持っていたためだ。
栄一さんの結婚により、加藤家・塩田家の両家が結びつき、現在の場所での加藤彦三商店が再開することとなった。
関東大震災から復興した塩田家の店舗の様子。1925(大正14)年に撮影
(写真提供:加藤彦三商店)
1925(大正14)年撮影。塩田家の店舗全体写真(写真提供:加藤彦三商店)
1933(昭和8)年、野毛小路にて、塩田家の葬儀。
この頃はまだアーチらしきものは無かったようだ(写真提供:加藤彦三商店)
現在の店舗。1925(大正14)年撮影の写真と同じ位置から撮影。電柱の位置も変わらない
旧式の野毛小路アーチとその頃の往来
旧式の野毛小路のアーチについて、「物心ついた頃にはあったなぁ。ほぼ同じ場所に・・・」と、写真を眺めながら、加藤さんは語った。
1957(昭和32)年、加藤さんが本町小学校の2年生だった頃に、旧式のアーチは設置されたそうだ。
「ここが京浜東北線桜木町駅の駅舎で、その隣にターミナルがあって、国道16号線と桜川新道を渡るとすぐ野毛小路だった。当時、日ノ出町駅と桜木町駅の間を乗り換え移動するのに、一番便利なルートが野毛小路だったからね。路面電車の駅も近かったし、たくさんの往来があったんだ」
1960(昭和35)年当時の京浜東北線桜木町駅。
駅を出て国道16号線と桜川新道を渡ると野毛小路に繋がる
「あの頃、野毛小路には米屋、洋服屋、ケーキ屋、菓子屋、クリーニング屋、銭湯や電器屋、料亭なんかもあった」。加藤さんによると、横浜の老舗うなぎ店「八十八」(やそはち)も野毛小路に店を構えていたという。
現在は夜に賑わいを見せる野毛小路だが、この頃は昼間も方々から多くの買い物客が訪れたに違いない。
また、加藤さんによると、当時野毛小路には職業安定所(現・ブリーズベイホテル)があったため、加藤彦三商店の一角に設けられていた立ち飲みスペースは日雇い労働者の交流の場だったという。
「うちの向かいの『ホテルエスター』は、当時銭湯でね、その壁面に屋台が並んだんだ。その中にはフライ屋の福田さんの屋台もあってね。お客さんたちは屋台でフライや焼き鳥なんかを買って、うちの店ではコップ酒を買う。昼間から路上で談話しながら飲み食いしてたよ」
昭和30年代の酒店前の賑わいを想像して(イラスト:ナリタノゾミ)
昭和30年代。
電車の乗り換えをする者、買い物客、日雇い労働者・・・。昼夜問わず、たくさんの人が野毛小路のアーチをくぐった。
今後の野毛小路アーチ
「ちょっとがっかりしちゃうかもしれないけど・・・」と断ったうえで、「実は来年、みなとみらい側のアーチは撤去しちゃうんだ。腐食が激しくてね、何か事故が起こってからじゃ遅いしね」と、加藤さん。
来年、4基のうち1基(前出「野毛小路図」の①アーチ)を全撤去し、残る3基(②~④アーチ)については維持するものの、12月中に時計を撤去してしまうという(現在、既に撤去作業が始まっている)。
「残る3基の時計も無くなっちゃうけど、電球は年内に全部取り替える予定だよ」とのこと。
アーチは1基減ってしまううえ、残る3基の時計も無くなってしまうが、その代わり久々に野毛小路のアーチに電燈が灯る。
取材を終えて
幼少期のご近所さんとの繋がりを伺うと、顔をほころばせた加藤さん
(イラスト:ナリタノゾミ)
桜川の埋め立て、路面電車の廃止、京浜東北線の延長、東急東横線桜木町駅の閉鎖という商店街の発展史的に重大な出来事をいくつも経て、街の様子も客層も変わった。
住居兼店舗で商う者は少なくなり、ご近所同士のコミュニケーション方法も変わってきたという。
加藤さんはいくつか幼少期の思い出話もしてくださった。福田フライのお父さんのお手伝いをしたらお駄賃代わりにポテトをもらって嬉しかったこと、泥んこまみれになったときに向かいの銭湯でお湯をもらって洗ってもらったこと。
「街が移ろいでいくことは、寂しいでしょうね」との質問に、「そうだね・・・」と呟いた後、「でも次の世代に引き継がれていくことはいいことだから」と言って、加藤さんは笑った。
「朝は近所の豆腐屋さんで豆乳を買ってさ、コップに入れてもらったのを、そっと手に持って、家まで運んできて、朝ご飯にするんだ」
時代の吹かせる厳しい風にも嫋(たお)やかに応じてきた。一方で、変わらない日常の営みを愛おしそうに語る。そんな加藤さんの姿が印象的であった。
―終わり―
株式会社加藤彦三商店
所在地/横浜市中区花咲町1-26
営業時間/10:00~20:30(土曜日・・・10:00~20:00)
定休日/日曜日・祝祭日
加藤彦三商店の前社長・加藤栄一氏が横浜美術館に寄贈した「加藤コレクション」
othellounoさん
2016年10月19日 16時00分
加藤彦三商店は今でもあるんですか?該当地は 横濱屋になってますけど・・・・・古い記事を再掲する場合はきちんと現状にあわせてください。
狐猫さん
2016年10月19日 15時47分
よこはまいちばん さん。 昔、根岸線が大船まで開通していない時期は、東海道本線・京浜線で桜木町駅から東京駅、東北本線・東北線は大宮駅から東京駅、そして、根岸線が桜木町駅から磯子駅など、だったのらしいすよ。 この記事を調査している当時は「京浜東北線 桜木町駅」が正しいのだそうです。 その後、大船駅まで開通したあとから、東海道本線京浜線が横浜駅から東京駅になり、根岸線が横浜駅から大船駅になったらしいのです。
よこはまいちばんさん
2016年10月19日 13時46分
今回もまたまた「京浜東北線桜木町駅」との記載が。京浜東北線とは東神奈川方面からは横浜駅までで、それ以降の大船方面は根岸線ですよ!横浜市民も多くが誤認識していてインタビューでそのように受け答えがあっても、はまれぽさん!記事にするときは正式名称で書いて下さいよ!市民の誤認識矯正の為にも。