旭区と保土ケ谷区にある神奈川坂。その歴史と由来は?
ココがキニナル!
保土ケ谷区に「神奈川坂」という坂がありますが、旭区にも同じ名前の坂があります。保土ケ谷の方が先な気がしますけれども、どちらの歴史が古いのでしょうか?また、それぞれの由来も気になります(maniaさん)
はまれぽ調査結果!
江戸中期以降に名付けられたであろう旭区の坂に比べ、保土ケ谷区は江戸時代以前にできたと考えられている。名前の由来はどちらも坂の行き先から!
ライター:田中 大輔
保土ケ谷区の神奈川坂にも迫る
続いては保土ケ谷区の神奈川坂に話題を移してみよう。
この坂は、元町ガードの辺りから保土ケ谷・神奈川新聞スタジアムのある保土ケ谷公園に向かって上っていく。
坂の下から。坂はカーブしながら保土ケ谷公園方向へ向かう
旭区のものと比べて勾配はきつく、歩いて上るとけっこうしんどい。
周囲は住宅街になっていて、生活道路として車や人の通りも多い坂のようだ。
車通りも少なくない道。旭区の坂に比べて角度もきつい
この坂については、「ほどがや人・まち・文化振興会」の副代表を務める近藤博昭さんに話を聞いた。
保土ケ谷駅近くで130年続くそば屋を営む近藤さん
旭区同様、こちらも坂にまつわる記録は多くは残っていないそうだ。
名前の由来は保土ケ谷区のウェブサイトにも書かれている通り、「神奈川に向かう坂だから」とのことで、旭区と同じ理由。
「神奈川(に向かうための)坂」ということ
ただし、近藤さんは「神奈川宿、というよりも神奈川湊に向かう、という意味でしょう」と話す。
というのも、神奈川宿ができたのは東海道が成立したのと同じ1601(慶長6)年。つまり、神奈川宿に行くのであれば東海道を使えばいいわけだ。
保土ケ谷宿も同じ年にできた。こちらは近藤さんお手製の宿場の再現模型
要するに、「神奈川坂となったのは、江戸よりも前の時代でしょう。小机城が中心だった1500年代だと思います」ということで、旭区の神奈川坂よりもだいぶ古いもののようだ。
1609(慶長14)年の「武州半谷郡御厨庄保土ヶ谷之郷御縄打水帳(ぶしゅうはんがやぐんみくりやしょうほどがやのごうおなわうちみずちょう)」という史料で神奈川坂が字名として出ていることからも、それよりも前から坂の名前として存在していたことがうかがえる。
東海道のルートとは違い、いったん山を登ってから神奈川方面へ向かう道ということになるが、近藤さんは「勾配から考えて、当時から今の場所にあったとは考えにくい」と言う。
当時は舗装もされていなかったろうから、できれば歩きたくはない
現在と違い、出発した日に目的地に着くのが当たり前ではなかった時代だ。
“急がば回れ”の精神が根強かったそうで、「もっと湾曲してなだらかな場所を通っていたのでは」と近藤さんは推察している。
また、家康が作った東海道以前の東海道、いわゆる古東海道。
保土ケ谷周辺では、この古東海道の道筋が明らかではない場所がいくつかあるんだとか。その候補のひとつとして、神奈川坂を使っていたのではないかという説もあるのだそうだ。
取材を終えて
というわけで、キニナルにある予想通り、保土ケ谷区の坂の方が歴史は古いようだ。
また、年代の違う2つの神奈川坂がほとんど同じ理由で名付けられていたというのも面白い。
話を伺ったお二人は異口同音に「同じ名前の道が別の場所にあるのは不思議ではない」と言う。それは、行きつく先を道の名前に付けることが多いからだ。例えば、市内には「鎌倉道」がいたるところにあるし、保土ケ谷には「金沢横町」もある。
考えてみれば、奥州街道や甲州街道も起点は江戸だ。そこからどこに向かうか、が名前の由来になっている。
歴史上、それほど重要な場所というわけではないが、身近にある疑問として興味深かった今回のキニナル。探してみれば、「ここは○○じゃないのに“○○道”?」とちょっと不思議に思える道が、すぐそばにもあるかもしれない。
―終わり―
qbbさん
2013年05月24日 07時55分
中原街道の中原が、平塚の中原を指していたことを知った時は驚きました。