横浜と川崎の境はなぜ鶴見川じゃないの?
ココがキニナル!
横浜市と川崎市の市境がなぜ鶴見川ではないのかが気になっています。川を市や県の境界とすることは多いと思うのですが、この二つの市の境は特別な理由があるのでしょうか?(さとうあにさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
市境は町村の編入によって決められたため、鶴見川より北側(東側)にあった町村の境界や矢上川が市境になっている
ライター:一藁 雅之
鶴見川をまたいでいる、2つのエリアの歴史(つづき)
2つめのポイントは、鶴見のやや北部の位置にある「日吉エリア」。
この地域は、1つの町(日吉村)の中を、鶴見川の支流で北側にある“矢上川”が流れていた。昭和初期における市政編入の際、横浜市になる地域と川崎市になる地域が、矢上川を境に南北に分けられた。
横浜市(港北区)と川崎市との市境である矢上川
つまり、鶴見エリアも日吉エリアも「鶴見川が基準ではなく、町村の合併によって境界が決定していた地域」であり、それぞれ横浜が市として拡大する際、鶴見エリアは丸ごと、日吉エリアは(鶴見川より北にある)矢上川を境に南側が組み込まれた、というわけだ。
簡単にその経緯を地図でたどってみよう(なお、詳しい横浜市の成り立ちについては、過去記事を参照していただきたい)。
江戸時代の横浜村(左)と、1859(安政6)年の横浜町
1889(明治22)年当時は、面積は5.4平方キロメートルで、現在の横浜市最小の西区(6.98平方キロメートル)よりも小さかった。
1889(明治22)年の市制施行の頃(左)、と1901(明治34)年の1次拡張時
横浜市と川崎市の市境が定められたのは1927(昭和2)~1937(昭和12)年の5次拡張までの時期。この時期に、上述の鶴見町と日吉村が編入された。下図を見ると、鶴見川を含んでまるごと編入されているのがわかる。
1927(昭和2)~1937(昭和12)年・3~5次拡張
(以上、すべて「橫濱市史稿」より)
ちなみに、市の境界が変わるためには、市議会、隣接する市の議決、さらに神奈川県の承認を得なければならず、容易に行えるものではない。今後もこの境界が大きくズレることはないようだ。
取材を終えて
市町村はじめ、さまざまな境界を定めるのはデリケートな問題だ。それは国家や県レベルではなく、土地をめぐる個人と個人の間で生じてもおかしくはない。上に記した自然的境もあれば、領土や権力といった意味での人為的境が定められた歴史もあるだろう。その土地をより深く知るために、この「境」をひとつのキーワードにしていくと新しい発見があるはずだ。
最後に、「横濱市史稿」、「鶴見区史」、「横濱沿革市」、「横浜の町名」、「図説【横浜の歴史】」、「港町 横浜の都市形成史」、「日本図誌大系 関東I」・・・これらの資料によって、貴重な情報を入手できたことに改めて感謝。
中込さんに用意していただいた資料には、横浜の歴史と情報が満載だった
―終わり―
Nipさん
2013年06月20日 21時59分
図が小さくて見えません。なるべく拡大できる様、お願いします。
萩原未央さん
2013年06月20日 12時35分
鶴見川近辺のお宅に配送でお伺いした際に鶴見川って東京オリンピック(昭和12年でしたっけ?)で何かの競技で使われる予定だったとか。戦争でオリンピックがお流れになったみたいですが、感慨深いものを感じました。
茶有さん
2013年06月20日 12時20分
タッカーさん、日吉は今は045ですよ。