横浜に人工の島「八景島」ができたのはなぜ?
ココがキニナル!
八景島の歴史を知りたいです。人工の島と聞きましたが、なぜあそこに島を作って遊園地にすることにしたのか?の経緯を。島ができる前や、造成中の写真なども見てみたいです。(いひでさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
戦前からの埋立によって自然の海岸が失われたことから、横浜市南端の現在の場所に、人工の砂浜である海の公園とセットで造られることに
ライター:ムカイカツヲ
埋め立て造成中の八景島
安斉さん、山口さんが、実際に造成中の八景島に関する資料(写真・ビデオ)をそろえてくださった。
八景島は、造成を開始した1980(昭和55)年から八景島シーパラダイスオープンの1993(平成5)年まで、足かけ15年をかけて完成された。
1980(昭和55)年5月。埋め立て工事開始時の金沢八景。
この時点で、浜部(海の公園)は存在しているものの、島部(八景島)は姿形もない!
1981(昭和56)年9月。護岸が八景島の外形を見せてくれる
島の造成は、護岸と呼ばれる枠を造り、その内部に土砂を積み上げることで開始される。とくに開始時は、その土砂を全て船で運搬しなければならない。
土砂の重みで傾く船(横浜市港湾局企画・著作、ビデオ「海の公園と八景島」より)
1984(昭和59)年3月。浜部とも接続され、島の外側だけでなく内側の埋め立ても順調に進んでいる模様
八景大橋完成後は、埋立用の土砂の搬入もトラックで行われた。
大量の土砂がひたすら海を埋めてゆく(ビデオ「海の公園と八景島」より)
なお、八景島全体を埋め立てるのに用いた土砂の量は約422万立方メートル。この量は、ランドマークタワー4杯分に相当する。
1985(昭和60)年4月。ほぼ現在の形に
この後、八景島にシーパラダイスが造られたのはご存じのとおりだ。
そして、シーパラダイスへ
八景島といえばシーパラダイス。
マリンゲートからの国道357号線
計画当初から、八景島にはレクリエーション施設を作ることとなっており、横浜市はこの部分で民間活力を活用しようと考えていた。したがって、1987(昭和62)年末〜1988(昭和63)年春頃に、コンペによって、5つの候補の中から、株式会社横浜八景島によるシーパラダイスプロジェクトが採択された。
これは、八景島に求めたものが、単なるレクリエーションの枠を超えた、「海を体験できる」空間であったからであろう。遊園地であるだけでなく、公園であるだけでなく、海洋スポーツの発信地としての役割が求められていたのだ。
取材を終えて
この取材のあと、山下公園を歩いてみた。
近くて遠い海
今まで気が付かなかったけど、目の前に海があるのに、潮のにおいもするのに、その存在を遠く感じる気も。これは、実際に触れられないからかもしれない。
だからこその、海の公園であり、八景島なのだ。八景島は、横浜市の中心部から約10kmほどに位置しており、公共交通機関も整備されている。国道357号線を使えば車でのアクセスも楽。市民が気楽に水と戯れるためには最適な場所だ。
そうそう、今回の調査資料の中に、面白い記述があった。八景島のスケール(大きさ)を決定する際、江の島の面積を参考にした、というものだ。この件について、真偽のほどはわからなかった。しかし、実際のところ、八景島は江の島よりも一周り小さい。これはもしかしたら人々が憩いの場として集う「島」としての大先輩に敬意を表したのかな?
それと、最後にもう一つ言わせて下さい。
海の公園の砂は、千葉の山の砂です!
―終わり―
金沢猫さん
2019年10月29日 01時27分
八景島のルーツは、戦後まもなく西武が金沢開発を画策したことに始まります。称名寺のとなりの大橋新太郎別邸を買収し、豊島園や西武園のような八景園という遊園地を造り、称名寺の境内までジェットコースターを張りめぐらす計画でした。それが史跡保存運動などもあって、1960年代後半に住宅開発に転じて、西柴団地となり、遊園地計画は頓挫しましたが、八景島の開発で息を吹き返したのです。シーパラダイスというのはもともと伊豆で西武が経営していた水族館の商標で、金沢の水族館に暖簾分けした形です。東急系の京浜急行と、西武の角逐が、箱根だけでなく、横浜金沢でも繰り広げられた戦後史の一エピソードと言えます。京急も八景島に多少の資本参加はしているのでしょうが、扱いが冷淡なのはそんな成り立ちを反映しているのかも知れません。
ポスポスさん
2017年11月13日 14時20分
千葉(房総)の山はそういえば、たくさん削られてします。あれを見ると哀しくなります。
ひげさん
2015年11月27日 21時02分
国道357号線が八景島で行き止まりになっています。今後の展望はどうなってるんだろう・・