昭和初期、海岸近くに花街があった磯子の歴史とは?
ココがキニナル!
昭和初期の磯子は、景色や地の利の良さで訪れる人が増え、料亭が軒を連ね芸者さんもたくさんいたそう。大人の歓楽街としての写真とか、その名残の建物などは残っているのでしょうか。(エルコラソンさん)
はまれぽ調査結果!
磯子は昭和以前から花街が形成され、昭和30年代半ばに最も隆盛を誇ったが、時代とともに消滅した。その跡をとどめるようなものは残っていない。
ライター:松崎 辰彦
磯子花街の総帥・葦名金之助
「たしかに磯子は建前上、男女のための密室が用意されていたわけではありませんが、しかしその気になれば蕎麦屋の2階でもできるわけで、あまり変わりはないと思います」
こう語るのははまれぽ記事「富岡総合公園には以前どんな施設があったの?」や「かつて磯子区にあった地名『テロフ』ってどんな由来なの?」など、何度もご登場いただいている磯子の郷土史家である葛城峻(かつらぎしゅん)さん。今回もその該博な知識に頼ることとなった。
磯子の郷土史家の葛城さん
「男にすれば『磯子は二業地だから待合はない。おれは健全な遊びをしてきたんだ!』と奥サンに言えるのかもしれませんが(笑)たしかに建前として、磯子の芸者は遊郭とは違って芸を売るものという認識がありました」
葛城さんは磯子の花街について語る。
「今のバス停『浜』から磯子区役所の南まで、16号線の海側の戦前の埋立地に、料亭、芸者置屋(芸者の待機している場所)、見番(けんばん:芸者のマネージメントをする)、三味線修理どころ、小唄のお師匠さん、髪結いさん、人力車、小料理屋とさまざまな店が軒を連ねていました。こうした店が結束し、『磯子二業組合』『磯子芸妓組合』も作られていました」
地図で見るとこの辺りである(GoogleMapより)※クリックして拡大
現在の国道16号線
磯子区役所
「浜」のバス停
ここで登場するのが、さきほども名前の出てきた「葦名金之助」である。
葛城さんによると葦名金之助は土木請負を生業とし、さらに市会議員もやったという地元の有力者で、当時は間坂の住人だった彼は1899(明治32)年から1913(大正2)年にかけて地元の埋立てを行ったとのことである。
彼の名前は意外なところで眼にすることができる。はまれぽ記事「磯子区の八幡橋八幡神社にある球体の正体とは?」に登場する、磯子の八幡神社にある正体不明の球体が鎮座する台座である。
JR根岸駅から歩いてほどなくの場所にある八幡神社
ひろびろとした神社である
正体不明の球体をいただく台座
自然石をセメントで接合して作ったとおぼしき中にいくつもの碑文が埋め込まれているが、その中に「磯子二業組合長 葦名金之助」の文字が見られるのである。
「磯子 二業組合 藝妓組合」の文字が彫られている
「磯子二業組合長 葦名金之助」の文字が見える
八幡神社宮司の関口正幸さんは言う。
「この台座はこの辺で『深川』という料亭をやっていた小島太三郎という人が音頭をとって作ったものだと聞いています。それ以上のことは、資料がないので分かりません」
関口正幸さん
「小島太三郎」の文字
この記念碑は昭和初期に作られたことは確実だが、当時ここには本務の宮司がおらず、近くの岡村天満宮の管轄だったということで、くわしい事情は不明とのこと。
いろいろ解説してくれる
しかしながらこのような方面に名を残すところを見ると、葦名金之助はなかなかの粋人、遊び人だったのではないかと葛城さんは笑う。葦名は磯子花街の総帥だったのだろうと推測する。
戦時中でも食材が豊富だった料亭
それでは、当時の芸者遊びとはどのようなものだったのか。葛城さんは教えてくれた。
「まず料亭に入る。そして『誰でもいいから芸者を呼べ!』か『〇〇を呼べ!』とリクエストする。すると料亭から見番(芸者のマネージメントをする)に連絡が入り、ご指名なら『〇〇ちゃん空いてる?』となる。次に見番から置屋(芸者の待機している場所)に連絡が行き、『〇〇ちゃん、8時からお座敷だよ』といった調子で、芸者がかけつけるわけです」
花柳街の祭 大正時代(『浜・海・道』横浜市磯子区役所発行1988〈昭和63〉年より)
「支払いは客が料亭に渡し、料亭は芸者代を見番に払う。見番は手数料を引いた額を置屋に払い、置屋のお母さんは自分の取り分を引いて芸者さんに払うという段取りです」
なんとも贅沢な芸者遊びだが、お客にはどんな人がいたのだろうか。
「地方政界、県会議員、市会議員、港湾関係の人たちが多かったです。偕楽園は海軍御用達の料亭だったので、軍需産業の人たちが海軍の将校を接待していました」
偕楽園は料亭の中でも特に大きく、現在の磯子アイランドの場所にあった。
偕楽園全景(『浜・海・道』横浜市磯子区役所発行1988〈昭和63〉年より)
偕楽園跡にある磯子アイランド
「戦時中、民間には食料が欠乏している中でも、偕楽園には大量の米や酒が、イカリのマークのついた海軍のトラックで運び込まれていました」
芸者も政界や官界、財界のエリートを接待するのである程度の教養が必要でしたと葛城さん。遊郭ではなく、“芸を売る”というプライドが芸者にもありましたと語る。
そんな時代を記憶している人が、磯子の街にいた。
料亭が盛んだったのは昭和30年代半ば
国道16号線沿いにある浜マーケット。その隣にある「うなぎ小島家」のご主人である小島正喜(こじま・まさき)さんは、かつて磯子に料亭があった時代の思い出を話してくれた。
小島さん
「親父が浜マーケットにきたのは1948(昭和23)年で、おれは10代だった。料亭に配達に行ったよ。『中志満』(なかじま)とか。あと偕楽園なんてのもあった。松は植わっているし、いいところだったよ」
「料亭が盛んだったのは1960(昭和35)年から1961(昭和36)年あたりだったかな。当時は右肩上がりのいい時代で、マーケットの連中も1日働くと2日くらい遊んでいられたんだ。飲みに行って帰ってこないんだから(笑)。料亭にいくと可愛いお姐さんがいて、お駄賃くれたりしたよ」
その後市電がなくなり、今では当時の光景など見る影もないと小島さん。懐かしい思い出としてあるようである。
海とともに料亭も、芸者も消えた
こうした風情あふれる花街が消滅したのも、風俗の変化や根岸湾の開発が原因だった。
「企業の接待の場が料亭から、関内のスマートなクラブに替わっていったのです。それに磯子の料亭は海岸料亭で、海が目の前にあるのが大きな売り物だったのに、埋立工事で目の前をトラックやブルドーザーが行き交い、煙がモウモウとするようになって、商売にならなくなりました」と葛城さん。
時代の移り変わりとともに磯子花街も失われていった。1968(昭和43)年には最大の料亭だった偕楽園も閉園に追い込まれた。
市電も廃止になった。写真は杉田線(杉田─葦名橋間)。
1967(昭和42)年7月29日(横浜市史資料室所蔵資料)
かつての時代を思い出して、葛城さんは言う。
「芸者になる前の子を半玉といいます。私が子どものころにもいて、芸が達者でおもしろい子が多かった。私もちょっかいを出したり、酒を飲んで映画を一緒に観に行ったりしました(笑)」
かつて磯子にあった花街。現在はもう、どこにもその痕跡を留めるものはないという。
取材を終えて
現在の磯子しか知らない多くの人々にとって、かつての磯子がこれほどに海に近く、風光明媚な土地だったとは想像もできないだろう。葛城さんも「磯子は特色のない街になってしまった」と嘆く。
街には芸者さんもいなくなり、白粉(おしろい)の香りもなくなった。花街が健全かどうかは別にして、昔の磯子にはたしかに“古き日本の情景”があったのだ。
時代の変化とともに、得るものもあれば失うものもある。当時の磯子に遊んでみたかったというのが、今回の取材の結論である。
─終わり─
参考文献
『浜・海・道』(横浜市磯子区役所)
『やぶにらみ磯子郷土史』葛城峻(磯子区郷土研究ネットワーク)
ほか
取材協力
葛城峻 磯子郷土史研究ネットワーク
http://daddy99432you.wix.com/katuragishun
八幡橋八幡神社
住所/横浜市磯子区原町10-9
うなぎ小島家
住所/横浜市磯子区久木町20-3
電話/045-751-5841
営業時間/10:00~19:30
定休日/毎月9・10・19・20・29日
http://www.isogo-kojimaya.com/
耳吉さん
2016年10月19日 16時03分
葦名橋と浜の中間、見番のあった通りの海側に「なぎさ園」という温泉施設がありました。「料亭・中志満」の近くでした。
htnbさん
2015年10月02日 12時51分
この記事には取り上げられていないが、磯子区の16号国道沿いには確か森3丁目の白旗バス停から少し中原よりに遊郭があったと記憶しているのだが、間違いだろうか。また同じく16号沿いで偕楽園より杉田よりで、今では公園になっている森1丁目辺りにも別の遊郭があったような話を聞いていたが、これも間違いだろうか。あるいは時代が違うのか。昔、1丁目の遊郭の女の子と中学で同級生だったが、それが遊郭の子か元遊郭の子か分からない。
さすらい日乗さん
2015年10月01日 14時12分
中志満の他、根岸には根岸園があり、料亭と旅館を兼業していて、他都市から来た議員が良く泊まっていました。また横浜市財政局の予算査定の時の泊まり込みは、根岸園だったそうです。中志満は、磯子から関内のビルの中に出店しましたが、それも今はないようです。要は、社用族の利用がなくなったからで、古き良き時代だったというわけです。