横浜の「疎開地」の様子とは?
ココがキニナル!
横浜大空襲の特集では都市部の話が多く、田舎だったからか金沢区・戸塚区(栄区・瀬谷区・泉区)の話はあまり聞きません…疎開先として機能していたはずと思い当時の暮らしや様子を知りたい(さきたさん)
はまれぽ調査結果!
金沢区は軍事関連施設が多く、疎開先にはなっていなかった。旧戸塚区は他区からの疎開先になったり、区内での疎開も行われていた。
ライター:ムラクシサヨコ
戦時中の戸塚区の子どもたちの暮らし(当時のお話し)
■戸塚小学校の男児を受け入れた密蔵院
1944(昭和19)年8月から終戦まで、戸塚小学校の4年生男子40名を受け入れたという密蔵院を訪ねた。現在は残っていないが、密蔵院では、町の人たちが疎開の子どもたちのために風呂場や炊事場などの建物を境内に新築したという。
当時、子どもたちの世話をしていた、現住職のお母様の田中妙栄(たなか・みょうえい)さんが、近隣の小学校などで戦争の悲惨さを伝える活動を精力的に行っていたが、2008(平成20)年に亡くなってしまったとのこと。当時を知る人は今はいないが、住職のお母様が子どもたちにお話をした際の資料を見せてくださり、境内を見学させてくださった。
横浜市営地下鉄ブルーライン下飯田駅から徒歩10分ほどの場所にある密蔵院
1944(昭和19)年、戸塚小学校周辺は工業地帯で空襲が心配されるとのことで、校長先生が直接寺に子どもたちの疎開受け入れを頼みに来たという。当時の住職がその場で快諾し、戸塚小学校の男子約40名を受け入れることになった。
戸塚小学校から密蔵院までは歩いて1時間ほどの距離で、親元を離れた寂しさから逃げ帰っては連れ戻される子どももいたそうだ。
戸塚小学校の疎開受け入れの話が来たとき、当時の住職が二つ返事で許諾したという
戦時中は金属供出してしまったため、鐘がなかったそうだ
穴は門扉の跡。こちらも戦争中金属供出で、門がない
ある日、食堂に爆弾が1発落とされたことがあったが、幸いその時間は子どもたちは外出中で、被害はなかった。食事は不十分で、おやつはじゃがいもをゆでたものなど。子どもたちはいつもおなかをすかせていたが、食料がなく、かわいそうに思ってもどうすることもできなかったのだという。
当時使っていた井戸
豊富な水量があったが40人分の洗濯は相当の量で、水が枯れてしまった。
寺の裏手に防空壕の跡が残っている。この防空壕は使うことはなかったという
■戸塚小学校の女児を受け入れた東泉寺
徳川家康の家臣が創建したという古刹・東泉寺
同じく戸塚区にある東泉寺では、1944(昭和19)年8月から戸塚小学校の女子を受け入れた。ここでは、住職の関水俊道(せきみず・しゅんどう)さんと、戦時中から東泉寺のすぐ近くに住んでいた88歳の田丸正(たまる・まさし)さんがお話をしてくださった。田丸さんは当時中学生で町の手伝いをしており、疎開の子どもたちのことをよく知っているという。
取材に協力してくださった田丸さん(左)と住職の関水さん
戦時中、男性は皆招集されてしまったので、女性と子どもばかりだった中、田丸さんは召集令状が届かないギリギリの年齢で、町の貴重な男手として、防空壕を掘ったりもしたという。
寺の裏手にある防空壕のあとを見せていただいた
田丸さんに疎開してきた子どもたちのことを聞くと、当時のことはよく覚えているとさまざまなことを教えてくださった。何人もの子どもたちの名前をスラスラとあげてお話しをされていたのがとても印象的だった。
「子どもたちが大きな籠を持って農家を回って、食べ物を分けてもらっていた。みんな野菜や何かを分けていたけれど、自分たちの食べ物もない時代だからね・・・。いつも食べ物がなくて、皆お腹をすかせていたよ。食事は芋をふかしたのとか、そんなものだった」
地元の子どもは地元の学校へ通い、疎開の子どもは先生が通ってきて寺で勉強し、遊ぶのも境内の庭。食べ物をもらいに行くとき以外は原則的に、寺の外には出なかったそうだ。
境内の庭。ここで疎開してきた子どもたちが遊んでいた
東泉寺の本堂。ここに子どもたちが寝泊りしていた
「市街地を爆撃してきた帰りの米軍機が、あまった爆弾をここで落としていくこともあった」。疎開先といっても決して安心できる場所ではなかった。
戦後生まれだが、当時の話を親から聞いているという関水さんは、「このあたりは江の島から12kmほどなんです。戦時中、江の島に米軍が上陸するのではないかと言われていて、そのための警備体制も敷かれていたようです」とのこと。
町には、警備の名の下、退役軍人が町の家庭に分散して暮らしていたという。だが、田丸さんによると「町を守るなんてとんでもない。空襲警報が鳴ると一番先に逃げていったよ」と教えてくださった。
70年前の記憶を語る田丸さん(左)とお父様から聞いた話を教えてくださった関水さん
食べ物のない時代、男手をとられた小さな農村が、疎開の子どもたちと退役軍人たちを受け入れるのは、大きな負担だったのではないだろうか。
8月15日、玉音放送を聞いたとき、田丸さんは「これから米軍がやってきて皆殺される」と怖かったことを記憶しているという。疎開していた子どもたちは、何を思ったのだろうか。
終戦を迎えてすぐ、東泉寺に疎開していた子どもたちはそれぞれ親が迎えにきて家へと帰っていったそうだ。
密蔵院、東泉寺は比較的、近距離での疎開だったためか、終戦と同時に子どもたちは親元へと帰ることができたが、学校によっては戦後の混乱の中で、9月、10月まで疎開が続いた学校もあったようだ。
取材を終えて
横浜の農村部でも、そこに暮らす人々は空襲におびえ、空腹に苦しみ、公園が畑になったり、学校が軍事使用されたりと、知らないことばかりだった。どんなにつらい日々を送っていたのか、戦後生まれの自分には想像も及ばない。学童疎開の手記は、あまりに悲惨で、読むのが辛かった。
今もそれは過去の話ではなく、世界には戦争の惨禍に巻き込まれる子どもたちが無数にいることを思うとやりきれない。
記事作成にあたり、学童疎開については、『横浜市の学童疎開 ~それは子どもたちのたたかいであった~』(横浜市教育委員会「横浜市の学童疎開」刊行委員会)を参考にさせていただいた。疎開した子どもたちの手記が掲載され、資料としても詳しいので、ぜひ一読されたい。(市販されていないが、横浜中央図書館、横浜市史資料室等で閲覧可能)
―終わり―
mina20さん
2016年11月27日 02時14分
旧戸塚区でも、現在栄区の本郷台駅周辺は海軍工廠があったので、空襲の標的になっています。[疎開先として機能していたはず」という質問の時点で?でした。
はつさん
2016年08月05日 14時26分
戦争の悲しみは特攻隊や玉砕、大空襲だけではありません。親元を離れ、食べ物のない中で暮らした子どもたち。彼らの寂しさやひもじさも、深い悲劇です。自分たちでさえ生きることに精いっぱいだった中、疎開児童を受け入れてくれた方々、野菜を分けてくれた農家の方々。そんな人たちがいたことが、せめてもの救いです。良い記事を読ませていただきました。調査お疲れ様でした。
マッサンさん
2016年08月05日 09時25分
今月15日で戦後71年を迎える。わたくしは"戦争を知らない子どもたち"である。驚くことに自分が生まれた頃から終戦(敗戦)の頃を差っ引くと"最近"のことであったのだなと。当時は戦争の爪痕や痕跡が未だあったろう…。今回の記事で学童疎開が取り上げられたが実際には学童疎開の真実は多くを語られていない。学徒出陣においてもそうだ。いまだに多くの事実が伏せられている。歯がゆい。戦争は二度と起こしてはならないし、あってはならない。15日に 戦争犠牲者に対し心から哀悼し、黙とうしたい。