戦時中、外国人の強制収容所を目的とした「弘明寺プリズン」があったって本当?
ココがキニナル!
戦時中日本国内に居たユダヤ人の強制収容のテレビ番組の特集でユダヤ人が「弘明寺プリズン」と言っていました。弘明寺プリズン?笹下の刑務所を当時一番近い町の地名として呼んでたの?(あなぐまさん)
はまれぽ調査結果!
分かりやすいように、最寄りの大きな街の弘明寺を名付けて、横浜刑務所を「弘明寺プリズン」と呼んでいた可能性がある。
ライター:小方 サダオ
なぜ弘明寺刑務所と呼ばれたのか
弘明寺商店街
弘明寺の山門
以前の取材でお世話になっている岩田質店のご主人に伺うと「軍事的な要所の位置を敵に知られないようにするため、厚木市に厚木基地がない、という話がありますが、それと似たような話かもしれませんね」とコメントしてくれた。
すると厚木基地のある大和市のホームページには「綾瀬市と大和市にある厚木基地については、防衛研究所図書館所蔵の『第75回帝国議会 昭和15年度 予定経費要求説明書(臨時部)海軍省』によると、当初から『厚木』という名称であったことがわかる。しかし『厚木航空隊』の名称については、1943(昭和18)年4月には大和村長・渋谷村長・綾瀬村長の連名により、名称変更の陳情をしていて、地元の人々にとって『厚木』の名称に違和感があったことが伺われる」
厚木航空基地位置図(『海軍厚木航空基地』岡本著より)
「『厚木』の名称がついた理由に関しては『近隣の一番大きな町の名を付けた』『敵の目を欺くために』などといわれてきたが、防衛研究所図書館所蔵の『航空基地及地名ヲ冠スル航空隊ノ名称附与法ニ関スル件仰裁』によると、『航空基地名称附与法』として、『所在地ノ市町村名又ハ錯誤ノ虞(おそれ)ナキ所在地附近ノ著名ナル地名ヲ附与ス』とあり、『厚木』の名称もこうした原則に基づいて『錯誤のおそれがない、所在地付近の著名な地名』ということで付けられた可能性が高いと考えられる(「広報あやせ」2005(平成17)年5月15日号要約)」とある。
厚木航空基地周辺図(明治42年測図)
また「神奈川『地理・地名・地図』の謎 浜田弘明著」によると「海老名市に厚木駅が出来たのが1926(大正15)年。当時の神中鉄道(現在の相鉄厚木線)は厚木市(当時厚木町)への延伸を考えていたが、相模川の架橋が困難で作れないでいた。そこで相模川をはさんで厚木の東側に当たる海老名の地に駅を作る際、将来的には厚木と横浜を結ぶことを想定し、厚木への玄関口という意味をこめて『厚木駅』と名づけた。また小田急線が厚木市に設置した駅は当初は『相模厚木駅』であったが、『こちらが本来の厚木だ』という意味を込めて『本厚木駅』と言う駅名にした」
海老名市にある「厚木駅」と厚木市にある「本厚木駅」
「また厚木市の領域に及んでいないのに厚木基地となった理由は、軍事施設を建設する際、基地の近くの大きな集落名を施設名にするのが一般的であったからだ。厚木は古くから神奈川県県央部の交通の要所として栄えてきた地で、当時綾瀬・大和近辺で最も大きな集落であったのだ」とある。
横浜刑務所は戦時中はスパイ容疑者や政治犯を拘留する軍事施設の一つともいえ、前出の「航空基地名称附与法」のような軍事的考え方が適用され、分かりやすいように近隣の有名な街・弘明寺の名がつけられたのかもしれない。しかし小田急線の厚木駅の場合は、鉄道会社が厚木の玄関口という意味で『厚木駅』と名づけたようで、昔から民間においてもそのような慣習があったとも考えられる。
さらに戦時中、横浜刑務所の住所が中区から南区に変わったことも関係しているのではないだろうか。
1906(明治39)年ごろの南区
(『南区がたどった70年の軌跡 南区政70周年記念事業実行委員会編』より)
港南区のホームページによると「1927(昭和2)年10月に区制施行に伴い中区になったが、1943(昭和18)年12月には、戦時配給制度の手続の軽減のため、寿(南)・大岡(港南)両警察署管内の各町を中区から分離した。そして中区の南にあることから命名されて南区が誕生した」
南警察署
さらに「1969(昭和44)年10月1日に南区の南部(港南支所管内)を港南区として分離し、港南区が発足」とある。横浜刑務所の中区笹下町と弘明寺は、ともに戦時中、南区に変わったのだ。
横浜の中心の中区であれば区域が広いこともあり、ほかの街の名前の候補もあった可能性がある。しかし、横浜の南部の南区の大きな街としては弘明寺があり名前が上がりやすかったのではないだろうか。
1935(昭和10)年の大岡の地図、弘明寺(緑枠)
1947(昭和22)年の上大岡の地図、横浜刑務所(青矢印)
旧道入口の交差点
ぐみょうじ車屋呉服店
ところで弘明寺から上大岡方面へと向かう、旧鎌倉街道沿いに呉服店があった。店名に「ぐみょうじ」とあったため、店主に店名について伺った。すると「当店の住所は大岡ですが、屋号はぐみょうじ車屋呉服店と名づけています。当店の先の交差点あたりまでは近いという理由で“弘明寺”と名づけてもいいように思われます」とコメントしてくれた。
向かいには“A弘明寺保育園”という施設もあり、住所は異なっていても象徴的な存在の近隣の街の名前を付けることは現在でも行われているようだ。
取材を終えて
刑務所や飛行場などは人があまり住んでいない農地のような広い土地に作られることが多いと言えよう。その場合は施設が大きな街に位置することが少ないため、近くの有名な町の地名が施設名につけられることもあったのではないだろうか。
戦時中近隣の街の名前を付けられた横浜刑務所
―終わり―
参考文献
『敵国人抑留』
『アルメニア人アプカー一家の三代記』
『横浜刑務所の偉容 横浜刑務所編』
『日本の監獄から』
『横浜市電の時代』
『第75回帝国議会 昭和15年度 予定経費要求説明書(臨時部)海軍省』
『海軍厚木航空基地』
『航空基地及地名ヲ冠スル航空隊ノ名称附与法ニ関スル件仰裁』
『神奈川『地理・地名・地図』の謎』
『南区がたどった70年の軌跡 南区政70周年記念事業実行委員会編』
こう622さん
2020年02月10日 11時58分
外国人抑留所としては、箱根のほかにも、泉区の中和田小学校向かいにもありましたね。
ushinさん
2017年02月05日 01時39分
あなぐまさん言うところの、「マクドも無ければ特急電車も止まらない小さな町の名前が、遠く離れたイスラエルの地に住む人の口から出た」のに対して、常盤台移転前の横浜国大工学部に受験に行くとき、有人改札で「ぐみょうじ」が読めずに上大岡まで切符を買った先輩がいた・・・とかいう話を思い出した。(「かみおおおか」は読めたんかい!?)
ホトリコさん
2017年01月20日 12時17分
外国人観光客達の楽しそうな姿と、今回の記事に出てきた外国人を比べてしまうと、やっぱり平和が一番だと改めて確認できるよね。