変な名前のバス停「温室前」の前に温室がないのはなぜ?
ココがキニナル!
笹下釜利谷道路沿いのバス停、温室前のバス停の由来が気になります。いまは温室らしきものは見かけませんが、昔はどんな温室があったんでしょうか。(こっしーさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
昭和10年代頃、バス停の近くにはカーネーションやスイートピーなどの花を栽培する温室があった。しかし1945(昭和20)年の横浜大空襲で焼失した。
ライター:橘 アリー
最初は横浜市営バスの路線だった!?
温室前バス停は、京急バスと江ノ電バスの路線である
京急バス能見台営業所と江ノ電バス横浜営業所によると、両者とも「この路線は横浜市営バスから受け継いだ路線なので、バス停ができた年代や由来については分からない」というような内容の回答だった。
そこで、横浜市交通局に問い合わせてみた。
横浜市交通局に飾られているバスなどの模型の様子
路線計画課の長田さんによると、現在「温室前」バス停を通過する金沢文庫線の前身となる路線(洋光台駅から田中や栗木方面)が1971(昭和46)年3月に始まり、2006(平成18)年には神奈川中央交通に移譲したとのことだった。これは当時、市内のバス路線の大きな見直しをした際に、経費などの節約も踏まえて民間のバス会社と競合している路線を整理したために行われたものだそうだ。
“温室前のバス停がいつできたのか”については、資料が残っていないので分からないとのことである。
ちなみに、温室前バス停が出来た年代は不明だが、このバス停は、最初は市営バスのバス停だったと分かったところで、続いて、地域に長く住まれている方にバス停の由来などについてお話を伺うことに。
花を栽培する温室があった!?
温室前バス停の近くに住まれている、大熊さんにお話を伺うことができた。
とてもお元気はご様子の大熊さん。現在94歳であるとのこと
大熊さんによると昭和10年代には、温室前バス停の前に花を栽培する温室があったそうである。
その温室は、志村さんという方が営んでいたそう。しかし、1945(昭和20)年の横浜大空襲で温室は焼失してしまい、戦後は同じ場所でしばらくの間、工務店を営んでおられたそうである。
志村さんにご子息は居なかったために工務店を続けられず、閉めた後は少し離れた場所へ移って行かれたとのこと。
当時は道路も狭く、舗装もされていなかったという。なにもない田舎道沿いに温室が2棟あり、中ではスイートピーやカーネーションなどの花が栽培されていたそうだ。
スイートピーなどが栽培されていた(フリー画像より)
そんな道路にバスが走ることになった。周辺には温室以外にはこれと言った特徴がなかったので、“温室”がバス停の名前になったとのこと。
戦後は温室が無くなっていたがバス停の名前はそのままなので、当時の様子を知らない人は「どこに温室があるのか?」とバスの中から周辺をキョロキョロと見渡していたそうである。
続いて、大熊さんに伺った内容を参考にしながら資料で当時の様子を調べてみた。
お話からすると、このあたりに温室があったようだ
これが現在の様子で・・・
こちらが温室のあった当時の様子(『浜・海・道Ⅱ』より)
現在は3階建てのマンションが建っているところに温室があったらしい。
右写真の温室前の道路が、現在の笹下釜利谷道路。
『浜・海・道Ⅱ』などの資料によると、磯子区は、冬は温暖で夏は海風が吹いて涼しいという気候条件から、明治初期より花や西洋野菜の栽培が盛んに行われていた。横浜開港後は、山手などの居留地に住む外国人たちからの生花の需要があり、花の栽培は益々盛んになっていったそうである。
西洋野菜の一つであるブロッコリー(フリー画像より)
そして、志村さんは山梨県出身で名前は高明(たかあき)さんと言い、奥さんのハツさんと一緒に温室で花の栽培をしていたようである。
出荷先は、西区戸部の現在の岩亀横丁にあった戸部市場であったそうだ。
志村さんの温室は、100坪と90坪の2棟で、大熊さんに教えていただいたカーネーションやスイートピーのほかにも早出しの菊も栽培していたようだ。
この、早出しの菊を作るときは、温室の周りを黒い布やゴザなどで覆って日照時間を調節していたという。
また、冬などは、温度管理のために、夕方から朝まで一晩中、夫婦交代で石炭やボイラーを焚くなどの苦労もあったようだ。
1935(昭和10)年ごろの温室。志村高明さん(左)とハツさん(『浜・海・道Ⅱ』より)
取材を終えて
記事中の志村さんご夫婦が映っている写真の中で栽培されている花は、カーネーションの種類の中のコーラルと呼ばれるものである。
この種類は、磯子区で生まれた花で、生みの親は、今回の温室と同時期に磯子区中原で花栽培をしていた井野喜三郎氏であるそうだ。
温室で栽培されていたコーラル(フリー画像より)
温室で生きたものを育てるのは大変で、冬は一晩中温めるなど手塩にかけて育てた花は、人々に喜ばれご夫婦にとっては我が子のように愛おしい存在であったのではないだろうか。
そんな温室が戦争で焼失してしまったのは、本当に残念であるが、バス停の名前として今も残されているのは嬉しいものだ。
どうか、この先も残しておいてくれますように。
―終わり―
nentzさん
2015年07月28日 11時32分
私もバスでこの停留所の前を通るたびに名前に由来に興味を持っていました。よく調べていただいて納得です。
ushinさん
2015年03月28日 16時48分
赤瀬川源平さんだったと思うが「憑依言語」とか語ってたような。地元の住人がだれもその謂れを知らないけれどもなぜかその呼び名で誰にも通用する地名。業務で一時赴任していた甲府市には「廃軌道」というれっきとした地名がある。廃線跡ヲタでもなきゃ普通知らないような、山梨交通の路面電車が走っていた郊外軌道跡を整備して道路化した市道が未だに軌道の名で堅気の衆に流通している。すごい。そういえば超芸術トマソンで関わりのあった赤瀬川先生(本牧生まれ)も亡くなってしまって残念・・・
ヒロミさん
2015年03月11日 17時34分
昭和35年にここで生まれ、ずっと江ノ電バスで幼稚園から高校まで通町まで通いましたが、志村さんの温室は知りませんでしたが、そこの場所に志村さんがやってたお茶屋さんがあったのを覚えています