地図にも現場にもない!? バス停の名前になっている「アザリエ団地」って何?
ココがキニナル!
戸塚駅から長後街道をしばらく進むと「アザリエ団地入口」というバス停がありますが、「アザリエ団地」なる団地は地図上も実際も見当たらないように思います。アザリエ団地って一体何なんでしょうか?(かずゅさん)
はまれぽ調査結果!
「アザリエ団地」は昭和30年代後半~40年代前半に、北信土地株式会社が宅地造成して販売した戸建て住宅地。現在も戸塚区矢部町に存在している!
ライター:橘 アリー
戸塚のアザリエ団地はあるのか!?(続き)
この日は肌寒い陽気だったので、外を歩いている人はあまり居なかったが、それでも、アザリエ団地ができた当時から住んでおられるという上野さんと出会い、お話を伺うことができた。
89歳になられるという上野さん
上野さんによると、このアザリエ団地は北信土地という会社が昭和30年代後半に開発したものであるそうだ。
アザリエとは、ドイツの花である“アザレア”から来ているとのこと。
「北信土地の担当者が当時ドイツで見たアザレアの花がとてもキレイだったので、団地の名前に付けた」と聞いていると言う。
現在は、団地内にアザレアの花は無いが、開発された当時は団地内にいくつかある鉄塔の回りにアザレアの花が植えられていたそうだ。
その後、いつのころか分からないが、アザレアの花は無くなってしまったそうである。
現在の鉄塔の回りの様子
アザリエ団地は在ったが、その名前となったアザレアの花がもう無いのは残念である。
アザレアの花は無いが、団地の入口のこの擁壁は、近隣の方によると当時のもであるそうだ
開発された当時の様子を資料で見て行くと
1963(昭和38)年の地図では造成中になっていて
1966(昭和41)年の地図では、ほぼ住宅が建っている
当時の宅地造成の様子は、現在の泉区白百合(当時は戸塚区)近辺の様子の写真で見ることができる。
1961(昭和36)年当時は戸塚区、現在は泉区白百合の宅地造成(提供:横浜市史資料室)
アザリエ団地ができる少し前になるが、戸塚のまちの様子は
このような雰囲気であった。1959(昭和34)年の写真(『目で見る横浜の100年』より)
そして、逗子のアザリエ団地との関係を聞いてみたところ、同じ北信土地が開発した団地であると教えていただけた。
戸塚のアザリエ団地の様子が分かったので、次に、逗子のアザリエ団地の様子を見に行くことに。
北信土地の記念碑がある!?
逗子のアザリエ団地について、アザリエ自治会の伊藤芳昭(いとう・よしあき)さんにお話を伺った。
伊藤芳昭さん
逗子のアザリエ団地ができたのは、戸塚の後であるようだ。
団地は第一期と第二期に分けて開発され、いずれも昭和40年初めごろのことであるそうだ。
開発した北信土地は、昭和の終わりころに無くなってしまったようであるが、記念碑が建っているとのこと。
記念碑は、団地の入口にある交差点近辺に建っている
北信土地の記念碑の様子
第一期で開発されたアザリエ団地内の様子
団地内には広々とした公園もある
こんな懐かしいポストも!
第二期に開発された団地内の様子
こちらはとても眺めの良いところである
そしてアザリエの名前が付いたバス停もあった
取材を終えて
バス停の名前になっているものが、現在は残っていないというのはよくあるが、今回のアザリエ団地は存在していた。
そして、逗子にも同じ団地があり、そこには、アザレアの木も残っていた。
アザレアの木の様子
取材したのは3月なので、花はまだ咲いていないが、5月ごろには咲くそうである。
花はツツジに似ている(フリー画像より)
団地の名前になっているアザレアの花が咲くころに、また訪れてみたいものだ。
―終わり―
海の狸さん
2018年07月21日 12時02分
古い記事に今頃のコメントですみません。逗子ではない、戸塚区の方アザリエ自治会の役員をしております。取材に来てくだされば対応したのに(笑) 矢部小学校の子供達が地元の歴史を発表する場で、なぜアザリエかと言うと、開発した会社の社長の奥様が、ツツジ=アザリエが好きだったからだと言ってましたね。古い住宅街ですが、代替わりもしていて、未だ子供の多い土地柄です。
ティアさん
2017年11月11日 16時18分
いってみたいなぁ
TIJIさん
2015年04月30日 14時18分
記事の中で「アザリエ団地入口」のバス停ですが、作られたのはここ数年で、バス停がある長後街道が幅員増設し始めた辺りと記憶しています また「矢沢」のバス停は今現在の場所とほぼ変わっていないため、「矢沢」→「アザリエ団地入口」ではありません ちなみに、戸塚西口はタクシー乗り場が2つあるため、バスセンター側から乗れば上記の長後街道経由ですが、区役所側から乗ると矢沢トンネルを抜けるルートから行きます