神奈川区の遊び場、通称「こうもり山」の山頂には何があった?
ココがキニナル!
神奈川区二本榎に30年ほど前、近隣の子どもが遊ぶ「こうもり山」と呼ばれた山(草むら・防空壕・畑)がありました。いつぐらいからあったか、その名称になった経緯がキニナル(kentaroujpさん)
はまれぽ調査結果!
中世の城があった場所で、「こうもり山」と呼ばれたのは山に掘られた防空壕にコウモリが住んでいた可能性からくる。山は今から60年前くらいまではあったようだ
ライター:小方 サダオ
平尾城の跡地であった「こうもり山」
そして周辺住民に話を伺っていると、投稿の「こうもり山」はただの山ではなく歴史的な意味を持つ場所であったことが分かった。
古くからの酒屋の店主は、「60年ほど前に栗田谷中学校のグラウンドを作る前は、山は広範囲に広がっていました。住宅地になる前から石垣と山の上に上がる階段があって、昔は大きな住居があったような感じがしました」という。
また山の近くに住む女性は「山の上には大きな木が生えていました。あの三角形の空き地まで山がありましたが、今は削られて上の人の土地になっています」
“船の先”の一部が削られたのは、狭くて使いづらい土地だからだろうか?
「山の反対側には古墳があり上に住宅が建ちましたが、『古代の墳墓であったような場所の上に住むのはどうだろうね?』と周囲の人たちは噂していました」とのことだった。
さらにふもとに戻って、古くから続くお店の店主に伺うと「私は90代でこの地の生まれですが、子どものころ先輩たちがあの山を指して、『お城のところから降りてきた』と言っていました。あそこには中世の時代の城か館があったそうです」
「また『物見の松』があり、お城の見張りとして使っていたようです。『平尾の城』という場所であったようで、区内に残る平尾・平川の地名もそこから来ているみたいです」という。
「物見の松」。写っている子どもと比べると大きさが分かる(青矢印、神奈河戦国史稿)
樹齢600年・高さ24メートルで、漁師の目標になっていたという(江戸名所図会)
投稿の場所には歴史的な「城」か「住居」が建っていた可能性がある。また、前出の女性から聞いた「山の上の大きな木」とは「物見の松」というその建物にとって意味のある木だったようだ。
投稿の城と小机城を結ぶ人物、平尾内膳とは
先ほど山のイラストを描いてくれた男性から、こんな話が聞けた。
「小机城と関係のあった、平尾内膳(ひらお・ないぜん)という人が住んでいたところです。神奈川宿には、『平尾物見の松』のほかに、『台町台の松』『子安の竜灯の松』という3本の巨松がありました」とのこと。
投稿の山には、城もしくは邸宅があったという。その平尾内膳とはどのような人物であったのだろうか?
『神奈川区史』には、「1512(永正9)年12月、北条早雲(小田原城を本拠地に関東一円を支配した後北条氏の初代当主)は自分に味方をする土着の国人衆(その国の住民)を増やそうとしていた。神奈川に進出し神大寺・片倉など前線基地を伸ばし、武蔵への足掛かりにした。神奈川一帯に所領を持ち支配していた領主や神奈川斉藤分を所領していた諏訪三河守(すわみかわのかみ)は江戸城の配下に属し、神奈川区一帯は小机城(後北条氏の拠点)下に組み込まれていた」とある。
その小机城の北条氏の家臣の一人に平尾内膳がいたのだ。
平尾城があった場所(青矢印) 。小机城があった場所(緑矢印、Googlemapより)
小机城の址(港北区史)
港北区にあった茅ヶ崎支城址。平尾城もこのような城だったのだろうか?
平尾内膳の城に関して『神奈河戦国史稿』には「天文年(1532年~1555年)のころ平尾内膳守という豪族がいて、一帯を平尾前と称した。山頂は岩崎山といわれた。物見の松は平尾城の南側の古塚の上にあった」とのこと。
また近くに平尾氏の菩提寺もあったようで、『横浜市史稿・地理』には「平尾山本願院東光寺。平尾城城主平尾内膳の建立。本尊は内膳の守本尊(まもりほんぞん)の薬師如来。寺ははじめ二つ谷にあったが、移転した。物見の松の碑のあたりに城址があった」とある。
そこでさらなる情報を求めて東光寺に向かった。
城址に近い二つ谷町から東神奈川に移転した
すると、東光寺の縁起として掲示板には「東光寺は平尾山と号し、新義真言宗(真言宗の宗派の一つ)に属す。この寺の本尊はもと太田道灌(相模・武蔵両国を支配していたといわれる室町時代の武将)の守護仏であったが、道灌の小机城攻略後、平尾内膳がこの仏を賜り、この寺を草創したといわれる」
「また、道灌は内膳に本尊を与えるに際し、『海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ』との歌を読んだといわれ、この歌が東光寺の名称の由来だとも伝えられる」とあるのだ。
東光寺にある掲示板
しかし太田道灌とは1432(永享4)年から1486(文明18)年に活躍した人物のため、時代が違なる。
それに関して東光寺の関係者に伺うと「戦災などで資料が焼失したため詳しいことは分かりません」とのことだった。
『神奈川区史』などの資料と東光寺に伝わる縁起とは事実関係に誤差が生じているようだが、寺の資料が焼失したことなどで詳しく裏を取りづらく、どちらが正しいのか証明するのは難しそうだ。
取材を終えて
港北区の小机城から約5km離れたこの場所にその支城があるとは、当時の勢力の大きさを想像させた。平尾内膳はこの場所で海から迫る軍勢を見張る役などを担っていたのだろうか? 広大な城址は山として残り、戦時中に防空壕がいくつも作られ、そこにコウモリが住み着いたのだろう。
「こうもり山」は、この街の象徴的な山であったのだ。
「軍艦山」と呼ばれていた平尾氏の城址
―終わり―
ちゃうちゃうさん
2017年11月23日 20時32分
質問者の言う”こうもり山”とは、軍艦山よりさらに下に降りた、何故か住宅街の中に残された空き地と防空壕の事では?そもそも軍艦山がある場所は旭ヶ丘で、二本榎ではありません。ちなみにその空き地は30年くらい前ならまだあったはずですが、今は造成され、数軒の住宅が建てられてしまいました。