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戦争の記憶を後世に。横浜大空襲体験者が戦争の悲惨さを語る

ココがキニナル!

5月29日に行われた「横浜大空襲祈念の集い」はどんな様子だったのかキニナル!(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

毎年5月29日に開かれる横浜大空襲を語る集い。今年も、何人もの空襲体験者が当時の惨状を語り、会場には涙する人もいた

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ライター:松崎 辰彦

“地獄とはこういうことか”



関戸さんのあと、登壇したのは、横浜市中区でそば屋を営む出川修治さん。出川さんは1943(昭和18)年に信州に疎開に行ってさまざまな体験を重ねた。「疎開から帰って、見た焼け跡」と題して、そうした思い出の一部が披露された。
 


出川修治さん

 
その後、会場から次々と発言の機会を求めて人が立った。

神倉稔さん──5月29日、彼は母と弟とともに野毛山公園に向かって逃げたが、猛火に包まれて、とてもたどりつけなかった。
 


神倉稔さん
 

野毛の焼け跡風景(画像提供:横浜市史資料室)

 
野毛山公園近くの東小学校に逃げ込んだところ、四方八方火に包まれて、校舎の中にも火が迫った。あとからあとから避難する人がきて、どんどん奥に入っていくと、火の手があがり、校舎にいられなくなった。

母と弟とはぐれた彼は、「お母さん」と叫んだが、返事はなかった。窓をこじ開けて、校庭に出た。マンホールがあったのでそばにしゃがみこんでいたら、役場の職員がマンホールの蓋を開けて、中の水をかけてくれた。
黒煙があがり、周囲は真っ暗で、日光が差すと、“ああ、いまは昼間なんだ”と思い出したという。

「母と弟は、東小学校で帰らぬ人となりました。その後、私は父と兄弟姉妹の生活になりました」

彼は成長し、一級建築士の資格を取り、街づくりに邁進した。

「一昨年5月14日、東小学校の全校生徒の前で空襲の話をしました」という神倉さん。ほかにもさまざまな場所で、戦争の語り部として話をしている。

福田三郎さん──港南区の福田三郎さんは当時13歳、学徒動員で工場で働いていた。5月29日はきれいな青空だった。うちから歩いて会社についたが、何か変だった。外に出ると、空襲警報と同時にB29が来襲し、そこから爆弾が雨あられと降ってきた。
 


福田三郎さん


工場の誰かから「逃げろ」という指示が出て、友達と二人で運河に飛び込んだ。手拭いを濡らして口と鼻を抑えてかがむようにして逃げた。青木橋にいくまでに大勢の人が倒れていた。「水くれ」「助けてくれ」足を引っ張られたがどうしようもない。

自分がどうしていいかわからなかった。全身が焼けただれ、頭の毛がちりぢりになった人が歩いていた。「地獄とはこういうことか」そのとき思った。
 


現在の青木橋

 
公園に逃げたが、大勢の人が倒れていた。牛や馬も倒れていたが、東屋にも人がおり、老人や子ども、みんなうずくまって倒れていた。若い母親が赤ちゃんを抱きしめて倒れていた。

「おそらく死んでいたのでしょう。どうすることもできない。また地獄を見てしまった」

13歳はひたすら逃げるしかなかった。家に足を向けても、一面焼け野原だった。幸い母親と兄弟は無事だったが、周囲には死んだ人がバタバタ倒れており、誰だかわからない。そんな中で三日三晩、飲まず食わず。4日目にサツマイモを口にできた。

「戦争というものは、どんなきれい事をいっても、殺し合いなんですよ。相手を殺す。逆にこっちも殺されるかもしれない。そういう戦いでなんです。いまの平和をみんなで大事にしていきたいと思います」

そのほか、何人かの人がみずからの過酷な体験を語った。
途中から横浜商業高校の生徒が入場し、空襲体験者の話に熱心に聞き入った。
 


話に聞き入る高校生

 
会の終了後、藤井さんは取材に対して、
「空襲から年月が過ぎて、みな高齢化しているにもかかわらず、この場にやってきてくれる。私など戦後世代ですけど、励みになります。皆さん、積極的に口を開き、貴重な話をしてくださり、感謝します」と話した。
 


横浜大空襲研究の第一人者・今井清一横浜市立大学名誉教授の姿も

 
体験者が少なくなり、記憶も薄れつつある横浜大空襲。そうした中で、毎年行われるこうした集いには、かけがえのない価値があろう。



取材を終えて



「あのときの苦しい思い──今の地震や津波とは違った災いでした。みんな空襲に遭ったのですから、タオル一枚くれる人もいないんです」と関戸さんはいう。

会場からは次々に手が挙がり、みな自分の体験を話した。ふだんは胸の奥に秘めた記憶や思いを、他人と共有したい思いにあふれていた。

これをいい残さなければ・・・死に切れない、そんな執念すら感じられた。
 


真摯に語りかける関戸さん

 
空襲体験者は、学校に呼ばれて子どもたちの前で話をする機会も多い。「戦争の記憶」を後世に伝えることに、熱心に取り組んでいる。自分たちの体験を後世に残していかなければ、という使命感が彼らを突き動かすようである。

「平和を迎えて、電気が一斉についたときのあのうれしさ。空襲のない夜の星空を見て『平和ってこんなにうれしいことなんだな』と思いました。偉い人たちはそんなこと関係なく暮らした人たちなんでしょうから、私たちの苦労なんか何も知りません。私たちはできる限り平和を唱えながら生きていくことが、一番大事なのではないかと思います」

関戸さんのような体験者は、年々少なくなっている。多くの犠牲者を出した横浜大空襲。政治論議はひとまず置いて、事実の火を後世に伝えたい。


─終わり─
 
取材協力
横浜の空襲を記録する会
 

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  • この二日後の台北大空襲でも防空能力が既にないことを露呈し、それまでとは百八十度方針を転換して市民の疎開を推奨した。喧嘩売るなら市民に被害が出ないことを確約、財産になんかあった時の保障も民間保険と同等の金額でやるべきだと思う。んで、その財源じゃなく、いますぐ払える金を確保してからやるべき。涙金でごまかされてもねえ。

  • 亡くなった親が戦争世代で、父が東京、母が小田原と共に爆撃に遭遇しています。幼い頃から如何に国防が大事かということを聞かされていました。当時の体験を聞くのは大事だとは思いましたが、戦後の反日平和ボケ教育で如何に国防を疎かにされ、現在危険にさらされているかと、50を過ぎた人生で、今、国防の重要性を感じるようになりました。そして、横浜の語り部さんたちは、先日の長崎の語り部とは違い純粋に戦争体験を語り継いでいくことを祈っております。

  • 身近な地名で語られた悲惨な体験記は、よく語られる東京大空襲や原爆の話より、悲痛な思いで拝読致しました。横浜が再び業火に焼かれる事態は二度と起きてはならないと再認識し、体験者の方々がご健在のうちに我々若者世代が、後世に伝えていく必要性を痛感致しました。体験者のご意思とは異なる考えかもしれませんが、このような惨事を防げなかった一つの要因として「子安の高射砲から弾が上がらなかった」という点にも着目したいです。国の罪は戦争を回避出来なかった事ですが、国民を守りきれなかった罪も大きいです。戦争をしない事は当然ですが、将来起きてしまった時に国を守るための備えとして、国防力強化の必要性を感じました。今国会で討論されているという、憲法解釈による集団的自衛権の行使容認は反対ですが、憲法改正により国防軍が設立された上での行使は、アメリカと連携して国を護って行くためには必要な事ではないかと、考えさせられました。

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