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横浜の中心部にある歴史的人物の銅像を調査!

横浜の中心部にある歴史的人物の銅像を調査!

ココがキニナル!

コロナ禍で遠くや人の多い場所を避け、子どもと県内の歴史人物像を巡っています。はまれぽ対象エリア内にも歴史上の人物像は多いと思うので、像と設立の経緯や関連史跡を特集していただけませんか?(なお♂さん)

はまれぽ調査結果!

今回は横浜市内中心部の銅像に対象を絞って調査した。けれども、さすが横浜。限られたエリアの中でも多種多彩なジャンルの、この土地ならではの人物像たちに出会うことができた。

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ライター:結城靖博


はまれぽは神奈川県下全域を取材対象にしているので、「はまれぽ対象エリア内」となると、相当な数になってしまう。また、横浜市内に限って調べてみても、思いのほか多い。さらに人物像といっても、銅像・石像・木像と基材はさまざま…。

今回は、比較的誰もが足を運びやすく、しかも自由に見られることを念頭に、横浜中心部の公共スペースに置かれている銅像に絞って紹介することにした。

だが、そのように限定してみても、そこはさすが横浜だ。さまざまなジャンルの歴史的人物像がそこかしこに鎮座しているのだった。



まずは文句なしイチオシの堂々たる銅像を拝観




おそらく横浜市内中心部で、これほどオーソドックスにして立派な歴史的人物像は、ほかにはないだろう――と思われるのが、掃部山(かもんやま)公園内の「井伊直弼(いい・なおすけ)像」だ。


公園内にドーンと屹立(きつりつ)する銅像


像の高さは3.6メートル、台座は6.6メートル。トータル10メートルを超える偉容だ。


「恐れ入ったか」と言わんばかりの凛々しき表情



場所はココ(© OpenStreetMap contributors)


掃部山公園はJR桜木町駅から徒歩10分程度。旧東横線高架下沿いに横浜駅方面へ歩いて紅葉坂を上る。


やがて坂の途中右手に神奈川県立青少年センターが見えてくる


その手前の道を右手に入ると、


掃部山公園に突き当たる


青少年センターの周辺には県立図書館や県立音楽堂、横浜能楽堂があり、この辺り一帯は横浜中心部の文教地区だ。


掃部山公園に隣接する横浜能楽堂


そうした地域に位置する掃部山公園の中に、なぜこれほど見事な銅像が建っているのか?

井伊直弼といえば、多くの人が連想するのが「桜田門外の変」だろう。1860(安政7)年3月3日、江戸城へ登城途中の大老・井伊直弼が桜田門の前で水戸藩の尊王攘夷派浪士らに襲撃・暗殺された教科書でおなじみの事件だ。

襲われた原因はいくつか挙げられるが、なにより、井伊が1858(安政5)年に結ばれた日米修好通商条約を攘夷派の反対を押し切って締結した中心人物だったことが最大の理由とみられている。

しかし、この日米修好通商条約の締結こそ、その後日本が近代化していくターニング・ポイントであり、条約締結後の横浜港開港は近代日本の発展の礎となった。


銅像の近くに建つ解説板


上の解説板にある通り、条約締結に踏み切った井伊は、いわば今ある横浜という都市を生んだ「立役者」と見ることもできるのだ。


銅像を背後から見た光景


まるで、ランドマークタワーはじめ「みなとみらい地区」の高層ビルと向き合うかのごとく建っている。横浜の繁栄を見守っているような、とても象徴的な姿だ。

解説板によれば、銅像は1909(明治42)年、旧彦根藩有志らによって建立され、同時に水泉も寄贈され、いずれも現在、横浜市の歴史的建造物に認定されている。


銅像のそばに置かれている水泉


ちなみに、現在の像が1954(昭和29)年に建造された2代目である理由は、戦時中、物資不足を補う金属回収令で撤去されたからだ。

ただし台座は初代建立当時のままだという。その台座の設計者・妻木頼黄(つまき・よりなか)は、赤レンガ倉庫や横浜正金(しょうきん)銀行(現在の神奈川県立歴史博物館)などの設計で横浜と縁の深い、近代建築界の巨頭だ。

なお、公園の名も「井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼」からとられている通り、銅像や水泉だけではなく、この公園一帯が井伊直弼を顕彰するために造園されたものだった。


銅像の前に開けた大きな広場



そして広場の先の傾斜地を下ると



美しい日本庭園もある


井伊大老を称えて生まれた場所は、今では横浜の中心部とは思えない静けさと豊かな緑に抱かれた、市民にとって貴重な憩いの場になっている。

ただ、造園される前までの明治時代初期は、実はこの辺り一帯は「鉄道山」と呼ばれていた。それはこの地に鉄道敷設草創期の鉄道技師官舎が置かれ、また、地下の湧水が蒸気機関車の給水に使われていたからだという。



歌謡界の女王の聖地に建つ像




井伊直弼像が幕末期を代表する像だとすれば、次に紹介するのは、そこから一気に時代が飛んで、横浜に生まれ「昭和の歌謡界の女王」と謳われた人物像だ。

時代は離れるが、場所は掃部山公園からそう遠くない野毛界隈。歩いても10分ちょっとの距離だ。そこに建つ銅像はこちら。


美空ひばり像


この像は映画館史についての過去記事でもすでに紹介しているが、横浜にちなむ歴史的人物像となれば外すわけにはいかない。


場所はココ(© OpenStreetMap contributors)

最寄り駅は京急・日ノ出町駅。駅から徒歩数分の平戸桜木道路沿い右手にある。


目印は左手の「松葉寿し」


というか、「松葉寿し」の目印が美空ひばり像と言ったほうが正しいのだろう。なぜなら像の発案者は、この寿司店の店主だからだ。

では、なぜここに? その答えのひとつは、幼くして天才歌手と讃えられた美空ひばりが本格デビューした舞台「横浜国際劇場」が、当時、この銅像の斜め向かいにあったからだ。下のマップがその位置関係を示している。


日ノ出町駅のはす向かいの角に建つ「オルガン広場歴史散策マップ」の一部



彼女の視線は、まさにその横浜国際劇場があった場所に注がれている


あたかも在りし日を愛(いと)おしむかのように。


とはいえ今その付近は「ウインズ横浜」という場外馬券場なのだが…


この像がここにあるもうひとつの理由は、芸能活動を始めた当初からひばりが松葉寿しに通っていて、2代目の現在の店主は、人気歌手とはいえまだ幼かったひばりの遊び相手だったからだ。

つまり、この店に来れば、寿司をつまみに店主から当時の思い出話を聞くことができるという、今なお多く存在する美空ひばりファンにとってのいわば「聖地」なのだ。


緑少ない繁華街の只中だが、台座の周りを様々な観葉植物の植木鉢が囲む


こんな光景にも、発案者の店主の思いのたけが伝わるようだ。


シルクハットに燕尾服姿というデザインがまた良い


12歳の時主演した映画『悲しき口笛』での衣装だが、彼女のファンならひとめで美空ひばりとわかるいでたちだろう。また、同映画の舞台となった場所も野毛界隈だ。その意味でも、当地にこの像が存在することには合点がいく。


現在の野毛坂通り


台座を含めて1.7メートルと、決して大きくはない。しかし、そのサイズがちょうど映画出演当時12歳だった美空ひばりの等身大の姿にも見えて、むしろふさわしい気がする。

像が建てられたのは1993(平成5)年のこと。製作者は富山県にある老舗の銅像製造会社「黒谷美術(くろたにびじゅつ)」だ。



横浜を創ったお雇い外国人の像




続いて紹介するのは、ふたたびポーンと時代をさかのぼって、開国期の人物像だ。しかも日本人ではない。


その人の名はリチャード・ヘンリー・ブラントン


今回は胸像である。場所は横浜公園。ここもまた、美空ひばり像から歩いて20分もかからない。


場所はココ(© OpenStreetMap contributors)


はからずも美空ひばり像とシルクハットつながりとなるこの素敵な紳士・ブラントン氏とはいかなる人物か。

井伊直弼が横浜の近代化の種をまいたとすれば、ミスター・ブラントンはその後の近代化を創造し育んだ人だ。


と言うと、ちょっと照れているかな?


イギリス・スコットランド出身のブラントンは、1868(明治元)年、新政府が招へいする「お雇い外国人」の第1号として来日した土木技師だった。主な目的は日本各地の灯台の設計で、滞在中の8年間に26ヶ所もの灯台建設を指揮し、「日本の灯台の父」と呼ばれた。

一方、滞在中の活動拠点とした横浜でも、この胸像が建つ横浜公園、さらに公園の正面に伸びる日本大通り、あるいは吉田橋など、多くの都市設計に携わり、横浜の近代化に貢献する。


胸像のそばにある「ブラントンと横浜」の解説プレート



公園の日本大通り側入り口を入ったところに建つブラントン像



近寄ってとらえた全体像はこんな感じ


やはり、決して大きなものではない。台座を含めても2メートル足らずだろう。


園内にはもちろん、現在は横浜スタジアムがあり



家族でにぎわう遊戯設備や



落ち着いた日本庭園「彼我(ひが)庭園」もある


だが、公園ができた当初は、居留外国人のためのクリケット場があり、そこでクリケットのほかに野球、フットボール、ラグビーなどが行われていたという。


その詳細を伝える解説板



そのほかブラントン像の横には横浜公園の歴史を伝える解説板がずらりと並ぶ


現在に至る横浜公園の変遷については、図版も盛りだくさんのこれらの解説板が丁寧に伝えている。詳細を知りたい方にはおすすめの場所だ。


ブラントン像が見つめる正面に、自らが設計した日本大通りが伸びている


まっすぐ続くその先に大桟橋がある。そこはまさにかつて横浜、いや日本が世界とつながるための限られた玄関口だった。
わずか8年間とはいえ、ブラントンが日本に残した功績は大きい。その象徴的なスポットが、この銅像が置かれた場所だと言えるだろう。



とにかくカワイイ、海を見つめる少女像


ブラントンが見つめる通りを大桟橋の手前で右に折れると、


まもなく左手に山下公園が現れる



園内中央に位置する「水の守護神」像の噴水も清々しく



氷川丸(ひかわまる)も変わりなく泰然とたたずみ



海に面したベンチはカップルにも絶好のスポット



そして取材した日は、ちょうどバラ園のバラが見頃の季節だった


この横浜観光のメインスポットの中に、ぜひとも紹介したい銅像がある。

正確には「歴史的人物像」とは言い難いかもしれない。なぜなら銅像自体は童謡の中のキャラクターだからだ。だがその人物像は、まったくのフィクションではなかった。そして、なによりも、とてもカワイイ!


その像の背中が見えた


正面に回り込んでとらえた像が下の写真。


「赤い靴はいてた女の子」像だ



場所はココ(© OpenStreetMap contributors)


童謡『赤い靴』は、1922(大正11)年に野口雨情(うじょう)作詞・本居長世(ながよ)作曲で世に出るが、雨情が書いた歌詞にはモデルがいた。

ただしそのモデル像には諸説あり、いまだに論争が続いているようだが、あくまで定説に沿って説明したい。


像のそばに設置された『赤い靴』の歌詞プレート


童謡『赤い靴』が横浜と密接な関係を持つのは、歌詞の中に「横浜の埠頭(はとば)から汽船(ふね)に乗って 異人さんにつれられて行っちゃった」という箇所があるからだ。

赤い靴の少女のモデルは、定説では静岡県出身の岩崎かよの娘「佐野きみ」とされている。

時は明治時代後期、かよは未婚の母としてきみを育て、社会主義運動の一環として北海道の平民農場へ幼いきみとともに入植。そこで鈴木志郎と結婚するものの開拓生活は困窮し、きみの養育をアメリカ人宣教師・ヒュエット夫妻に託す。

ところが夫妻がアメリカに帰国する際、きみは結核に冒されており、アメリカに連れて行くことができず東京の孤児院に預けられ、そのまま9歳で亡くなってしまう。

しかし母親・かよは64歳で没するまでその事実を知らず、きみはアメリカに渡り、そこで幸せに過ごしていると思い込んでいたという。


きみは「異人さんにつれられて行っちゃって」いなかった


当初社会主義詩人として出発した野口雨情は、札幌の新聞社に勤めている頃、同僚だった鈴木志郎と妻・かよと親交を深める。そして、かよから娘・きみが「宣教師に連れられて渡米した」との話を聞き、それに触発されて生まれたのが『赤い靴』の歌詞だった。

ちなみに歌詞の中に「横浜の埠頭から」とあるのは、当時横浜が神戸とともに海外とつながる限られた玄関口だったことを思えば当然だろう。とはいえ、モデルの「佐野きみ」と横浜との直接的な関係は、実はないのだ。

それでも今では、横浜にとって「赤い靴」は象徴的な言葉だ。


なんたって、「あかいくつ」という名の観光周遊バスもあるし


以上の定説に対して諸説紛々の「赤い靴モデル論」ではあるが、海を見つめてポツンと佇むこの小さな女の子の像を見つめていると、「それはさておき」という気持ちになる。


微かに右に首を傾げた表情がなんともいえない



また、少しだけ右足が前に出たフォルムや



ふわっと組まれた丸みのある両手も愛らしい


ところで、上の写真の腕の中に、どんぐりがある。これは、筆者が撮影する前にこの像に向き合ってしげしげと鑑賞していた初老の男性が、足元のどんぐりを拾ってここに置いたものだ。その気持ち、よくわかる! あげたくなっちゃうよね。


少女が見つめる横浜の港


実際は、見つめる先はアメリカではなく、東京湾の都心方面なのだけど…。


銅像は決して大きくない。像そのものは1メートルにも満たないだろう


建立は1979(昭和54)年。作者は山本正道氏。「赤い靴を愛する市民の会」によって寄贈された。

ところで、「赤い靴の少女像」はこの場所以外にも全国各地にある。横浜にも、横浜駅中央通路に設置されているし、そのほか北海道、静岡県などゆかりの地とされる場所6ヶ所に像が建てられている。



「スポーツの父」と呼ばれた政治家の像




今やスポーツ界から政治の世界に躍り出る人も珍しくない時代だが、スポーツと政治の二つの世界を結びつけた先駆者が、かつて横浜にいた。最後に紹介するのは、そんな人物の銅像だ。

場所は今までの4体とは少し離れた三ツ沢(みつざわ)公園の中。さすがに山下公園からここまで歩くのは厳しい。最寄り駅は市営地下鉄の三ツ沢上町(みつざわかみちょう)だ。


第1駐車場側から公園に入ってすぐの場所にその像は建つ


オリンピックの聖火ランナーか? ひょっとして三ツ沢公園を訪れる人の中にはそう思う人もいるかもしれない。

だが、そうではない。これは、この人物が1955(昭和30)年に行われた第10回国民体育大会開会式で、炬火(きょか=オリンピックでいう「聖火」)の最終ランナーを務めた際の勇姿だ。なんとこの時、御年76歳。

その光景に臨み感銘を受けた昭和天皇は、「松の火をかざして走る老人(おひびと)のををしき姿見まもりにけり」と詠んだ。


望遠レンズでグッと寄ってみると、確かにそれなりの年輪を重ねたお顔に見える


で、誰なのか?


台座の正面にはこのような文字が刻まれている


「うん?平沼さん?」

台座だけで1.5メートル弱、そこから想像するに全長は相当な高さになる巨大かつ立派な銅像の名が「さん」呼ばわり? しかも、下の名前もないし…(大きさは三ツ沢公園に尋ねたが記録がなく、わざわざ職員の方が現場に行って、手が届く台座の部分だけを測ってくれたもの。恐縮です!)。

しかし、あなどるなかれ。銘板を揮毫した人は、この人物と係累関係にある皇族・秩父宮勢津子(ちちぶのみや・せつこ)妃だ。いわばこの名付けは、「横浜市民だったら、当然『平沼さん』が誰だかわかるでしょ?」という矜持(きょうじ)とも取れる。


とはいえ像の背後に回ると、台座に銅像の由来がしっかりと書かれている


この人物の名は平沼亮三(ひらぬま・りょうぞう)。戦前は衆議院議員、貴族院議員に、戦後は横浜市長となった人物だ。国体で炬火の最終ランナーを務めた頃、平沼氏は2期目の横浜市長だった。そしてこの4年後、市長在任中の79歳で没する。

若かりし頃は、慶応義塾大学の野球部で4番打者として活躍し、平沼氏自身スポーツマンだった。その関係からのちに東京六大学野球連盟会長に就任。そのほか全日本体操連盟、日本陸上競技連盟協会の初代会長をはじめ数多くのスポーツ団体の長となり、戦前から戦後まで長年にわたってスポーツ界全体の発展に貢献する。

1932(昭和7)年のロサンゼルス、1936(昭和11)年のベルリンと、戦前の二度のオリンピックでは、日本選手団団長も務めている。

こうしたことから、いつしか平沼亮三は「日本のスポーツの父」と称せられるようになった。


76歳にしてこの逞しき体幹!


さらに言えば、現在西区に残る「平沼」という地名も、氏と無縁ではない。この地は、亮三の曽祖父に当たる5代目平沼久兵衛が埋め立てを始め、父である7代目久兵衛の時に完成したのだという。


現在の相鉄線・平沼橋駅周辺


さらにさらに、平沼亮三氏は玉川電気鉄道や第一ホテルの社長など、数多くの大企業の重役も務める実業家でもあった。

「平沼さん」とは、そんな、日本の近現代史に名を刻む「ド偉い人物」だったのである。


国会図書館「近代日本人の肖像」より(出典『スポーツ生活六十年』)



公園内の銅像の場所はココ(© OpenStreetMap contributors)


銅像が建立されたのは、平沼氏が亡くなった3年後の1962(昭和37)年。横浜市体育協会によってこの地に建てられた。

なお、公園沿いの東側には、「横浜市平沼記念体育館」がある。


円塔の2階には平沼亮三記念室が置かれ



数多くの写真や遺品が展示されている


ところで三ツ沢公園というと、「平沼さんの像」の周辺には


日本陸上競技連盟第2種公認の陸上競技場や



Jリーグやラグビーのトップリーグが開催されるニッパツ三ツ沢球技場や



広々としたテニスコートなどがあったりして


公園というよりも、運動場というイメージが強い。だが、新横浜通りをはさんだ反対側のエリアには、意外と緑も多い。


この歩道橋を渡って新横浜通りの反対側へ行くと



そこには、横浜市内のど真ん中に馬術練習場があったり



巨大なローラーすべり台などが設置された「わんぱく広場」があったりして


終日車が忙しなく通る幹線道路の脇に、「おやっ?」と思うほど静かな空間が広がっている。


さらに奥へ進むと、横浜大空襲の犠牲者を弔う「横浜市戦没者慰霊塔」が建ち



慰霊塔の裏には「豊顕寺(ぶげんじ)市民の森」が広がっている


「平沼さんの像」を訪ねて足を運んだものの、予想外の収穫も多い取材だった。




取材を終えて




実は「豊顕寺市民の森」の先には、その名の通り日蓮宗・豊顕寺があり、境内には日蓮上人の銅像もある。


豊顕寺境内の日蓮上人像


横浜市内に限ってもまだまだほかに歴史的人物像はあるのだが、特に寺院の境内には日蓮上人・親鸞聖人・弘法大師など、歴史的宗教家の銅像が数多く存在する。

いずれそれらにテーマを絞って、取材してみたいものだ。

ところで、今回取り上げた銅像は、井伊直弼像から赤い靴はいてた女の子像に至るまで、像の「目線」に意味があることで共通していた。その像が「どこに置かれ」「どこを見つめている」のか、そんなことも意識しながら向き合うと、よりいっそう深い理解が得られるのではないだろうか。



―終わり―

取材協力

三ツ沢公園
住所/横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1
電話/045-548-5147
指定管理者|横浜市緑の協会・スポーツ協会グループ

横浜市平沼記念体育館
住所/横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1
電話/045-311-6186 
※記念室の開館日時・時間については、直接体育館にお尋ねください

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  • 松葉寿司は創業何年かをしっかり調べたほうが良いです。青森から何年にこっちにきたか?惣菜屋でしょう。

  • 久々に、「はまれぽ」らしい記事。こんな記事が見たくて、「はまれぽ」をブックマークしている。

  • ずっと関西在住の74才。一度訪ねてみたいと思わされたルポでした。

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