横浜市内に古くからある「橋」の歴史を教えて!
ココがキニナル!
横浜市内には多くの橋が架けられています。普段は何気なく渡っている「橋」に面白いエピソードはないのかキニナル!(トラズキノコさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
関東大震災の復興事業の一環で架けられた「都橋」。名前は古今和歌集に由来する。元は横浜港開港にさかのぼり、明治までは「野毛橋」と呼ばれていた。
ライター:橘 アリー
都橋は野毛橋と呼ばれていた!?
(つづき)
都橋が最初に架けられたのは、横浜が開港した年。1859(安政6)年のことである。当時は、都橋ではなく、野毛にあったために「野毛橋」 と呼ばれていた。そして、その「野毛橋」は、1868(明治元)年5月8日の大雨で流出してしまったそうだ。
その後、ゆるい半円形の木の橋が架けられ、橋の下を船が通れるようになっていた。
野毛橋と呼ばれていたその当時の様子は、浮世絵師の五雲亭貞秀(ごうんてい・さだひで)の横浜絵に描かれている。
「空飛ぶ絵師五雲亭貞秀」 にも当時の野毛橋の様子が載っている
(編集発行:神奈川県立歴史博物館)
野毛橋は、横浜開港時の主要路の横浜道にあった。そのため、人々の通行量も増え、馬車も頻繁に行き来していた。そこで、その往来に耐えられるよう、1872(明治5)年に同じ木製ではあるが新しい橋に架け替えられた。
これにともなって橋の位置を北側に5メートルほど移動したことと、橋を拡幅したことで付近の住民は立退きを余儀なくされ、相生町6丁目に移ったそうだ。そして、野毛橋の廃材は、大岡川上流にある、栄橋に流用された。このとき、野毛橋は、都橋という名前に改名されたのだ。
その後、都橋は、1882(明治15)年に鉄製のボーストリングトラス橋に架け替えられたそうだ。ボーストリングトラス橋とは、橋の主体がトラスと呼ばれる三角形の部材で作られていて、そのトラスを結ぶ上弦の弦材の核点が放物線上置かれていてアーチ橋にも近い構造になっているもの。
この時の橋は、「明治工業史の中で比類なき出来ばえ」と称賛をうけたようであるが、関東大震災で崩落してしまい、1928(昭和3)年 に現在の橋に架け替えられた。
そして、1983(昭和58)年に改築されて、現在に至っている。
親柱に改築年が記されている
福富町方面から見た都橋の様子
取材を終えて
都橋の名前は、付近の三つの橋に、それぞれ柳・桜・錦という名前がついていたので、都という名前を付けることにより、古今和歌集の「柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦」という歌が整う、ということに由来するとのこと。
そして、都橋は、横浜開港に合わせて造られた横浜道上にあり、架けられてから現在まで、横浜の主要な交通路の役目の一旦を担い続けている。
ちなみに、一番橋が多いのは旭区(153橋)。一番橋が少ないのは、鶴見区(35橋)である。旭区は、面積も広く帷子川や二俣川などの上流に位置しているため、小規模の橋が多く存在しているので、橋の数が多いようである。
街中にある道路橋は目立つ存在ではないが、調べてみるとそこには意外なエピソードがあったりする。長い歴史を辿って来ている橋を、遠い昔の様子を想いながら歩いてみるのも良いものだ。
―終わり―
参考資料
よこはまの橋・人・風土(発行:秋山書房)
かながわの橋(制作・発行:神奈川合同出版)
横浜の橋(発行:経済地図社)
川の町・横浜(編集・発行:横浜開港資料館)
「広さ」「長さ」「高さ」の構造デザイン(発行:株式会社建築技術)
yakisabazushiさん
2013年09月12日 22時47分
横浜には古くて魅力的な橋が多いと思います。ちょっとした鋳物の飾りがおしゃれだったり、昔の土木工作物って洒落てますよね。残念なのはスプレーで描かれたイタズラ描き。残念な気持ちになります。描いた人がこんな歴史を知っていたら、描いていたのでしょうか? 是非シリーズ化して、これからも橋の魅力を伝えてください。
たにけいさん
2013年09月10日 14時27分
地味めとはいえ橋の記事って良記事の確率が高いような気がします。全て読んだわけではなくあくまでも個人的な感想ですが。
華山舞之介さん
2013年09月10日 13時02分
シリーズ化希望「ヨコハマ 橋探訪」とか