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イセザキ・モールの入り口の看板とアーチの歴史を教えて!

ココがキニナル!

伊勢佐木町の入口に大きな「救心」の看板がありますが、なぜここにあるのでしょうか?また伊勢佐木町の入口のアーケードや看板の歴史をお願いします。(浜っ子五代目さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「救心」の看板は、繁華街で、なおかつ電車から見ることが出来るという理由からイセビルの上に設置された。現在のイセザキ・モールのアーチは五代目!

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ライター:橘 アリー

初代のアーチは、兵器になった!?



次は、投稿にあったもう一つの「伊勢佐木町の入口のアーケードの歴史について」というキニナル。
ちなみに、「入口のアーケード」とは、商店街入口にある大きな門のモニュメントのことで、「アーチ」や「ゲート」と呼ばれているものである。

「入口のアーチ」の歴史について、イセザキ・モール1・2St.(伊勢佐木町1・2丁目地区商店街振興組合)でお話しを伺った。

対応して下さったのは、イセザキ・モール1・2St.の副理事長で、イセザキ歴史マイスターである津田武司さん。
ちなみに、津田さんは、1869(明治2)年創業の「むさしや津田商店」の4代目の社長である。
 


快く取材にご協力下さった津田さん

 
津田さんによると、最初に入口にアーチが作られたのは、1935(昭和10)年のこと。
それまでは、催し物などがある時に、“のぼり”や“垂れ幕”などが設置されることはあったが、アーチとして設置されたのはこれが初めてである。
 


金の王冠のアーチの様子
(出典:『OLD but NEWイセザキの未来につなぐ散歩道』)

 
この年は、1923(大正12)年に起きた関東大震災からの復興記念横浜大博覧会が開かれ、この復興博を祝って、伊勢佐木町に金の王冠アーチが造られた。

そして、何かの祭りやイベントが行われた時は、この金の王冠のアーチの下に旗や垂れ幕が取り付けられたそうである。

 


1937(昭和12)年の「神風号」帰国パレードの様子
(出典:『OLD but NEWイセザキの未来につなぐ散歩道』)
 

1940年(昭和15)年の神武天皇即位紀元2600年を祝う垂れ幕が付けられた様子
(出典:『OLD but NEWイセザキの未来につなぐ散歩道』)

 
旗や垂れ幕を見ると、当時の様子を垣間見ることができる。
この金の「王冠のアーチ」は商店街のシンボルとして人々に親しまれていたが、1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まったことにより、1942(昭和17)年、兵器増産用の金属類として撤去・提供され、設置されてから僅か7年でその役目を終えた。
 


撤去前のアーチの様子。戦争に関わる垂れ幕が張られている
(出典:『OLD but NEWイセザキの未来につなぐ散歩道』)


続いて、戦後のアーチの移り変わりについて伺った。



三代目は、「開港100年」を祝った!?



二代目となる、戦後最初の「入口のアーチ」は、1951(昭和26)年に作られ、入口に設置されると同時に、商店街の中にアーチが6基、街灯129本が設置された。
残念ながら、この「入口のアーチ」の写真は残っていないが、商店街の中ほどに設置されたアーチの写真は残っている。
二代目の「入口のアーチ」も、中ほどに設置されたアーチと似た様子であるそうだ。
 


商店街1丁目の中ほどに設置されたアーチ
(出典:『OLD but NEWイセザキの未来につなぐ散歩道』


さらに1958(昭和33)年には、「横浜開港100年」を祝う為に三代目の「巨大なアーチ」が新設された。
 


1958(昭和33)年の開港100年祭当時。「祝開港百年」と記されている
(出典:『OLD but NEWイセザキの未来につなぐ散歩道』)

 
この三代目のアーチは、周りのビルに引けを取らないほど、堂々とした立派なものである。

そして、このアーチは1964(昭和39)年の東京オリンピックで聖火ランナーを商店街に迎えるために撤去されて、四代目が造られた。



四代目は、聖火ランナーを迎えた!?



四代目の呼び名は、それまでの「アーチ」から「ウエルカム・ゲート」というものに変わり、様子も、以前のものとは全く違う。
 


四代目の「ウエルカム・ゲート」
(出典:『OLD but NEWイセザキの未来につなぐ散歩道』)


この「ウエルカム・ゲート」は1964(昭和39)年10月8日に竣工した。
色は銀色で、高さ27メートル。ステンレス製の柱とピアノ線を多く使い、風速60メートルの風にも耐えられるように設計された。
 


聖火ランナーが商店街を走る様子
(出典:『OLD but NEWイセザキの未来につなぐ散歩道』)

 
尚、この四代目となる「ウエルカム・ゲート」は、一度、リニューアルが行われたそうだ。

そのリニューアルは、1985(昭和60)年に、「伊勢佐木町誕生110周年」を祝ってのもの。
ゲートの上の方に「空飛ぶ帆船・日本丸」が取り付けられ、その下を通って、完成を祝うパレードが行われた。
 


リニューアルされた「ウエルカム・ゲート」
(出典:『OLD but NEWイセザキの未来につなぐ散歩道』)


空飛ぶ船が印象的だった、この「ウエルカム・ゲート」を覚えている方も多いのではないだろうか。

続いて五代目となる、現在の「ウエルカム・ゲート」について伺った。



ゲートから冷たいミストが出る!?



五代目となる現在の「ウェルカム・ゲート」は、1999(平成11)年に新設された。
 


現在の「ウエルカム・ゲート」
 

上部には、幾何学模様の中にステンドグラスがはめ込まれている
 

気温が28度を超えると、冷たいミストが噴射される仕組みになっている

この五代目となるゲートの新設は、平成不況の対策の一つとして、また、街の再開発計画の一つとして行われた。
1995(平成7)年~2000(平成12)年にかけて行われた「ライブタウン整備事業実施計画」の中の「街づくり5大事業」の一つとして横浜市の助成を受けて行われたそうだ。



取材を終えて



長い歴史のある伊勢佐木町。
入口のゲートは、時代の歩みとともに何度か建て替えられてはいるが、今でもイセザキ・モールのシンボルとして多くの市民に愛され続けている。時代が移り変わって行く中、看板やゲートを見て行くと、その時代の様子が伺えて懐かしく楽しい。
そんな看板やゲートの歴史を思い描きながら、イセザキ・モールを散策してみてはいかがだろうか。


―終わり―
 

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  • 数年前に3丁目入口の、先月に2丁目出口のアーチが撤去されました。現在は1丁目入口と6丁目出口に巨大なアーチがありますが、地元に詳しくない人だと6丁目出口の巨大アーチが商店街としての出口(終わり)かと思ってしまい、7丁目は別の商店街だと勘違いしてしまうのでは?と思ってしまいます。あれだけ長い商店街だと足並みが揃わない等の弊害があるかと思うが、各丁目毎に努力・競い合うと同時に商店街全体像も平行して考慮しないとデメリットもあるかと。伊勢佐木町もモール化する前の、各丁目毎に独自デザインの小さなアーチがあった頃が華やかで良かった時代でしたネ。昭和の時代が懐かしく思われました。

  • 昔は華やかだった伊勢佐木町も今はシャッターが閉じたままの店舗が多数・・・このままだとシャッター商店街4になってしまうのでは?と危惧してしまいます。昔の光を取り戻すべく頑張って欲しいです。

  • 調査いただき、ありがとうございました。救心さんの広告戦略、そうだったんですね。ゲートは四代目が一番思い出深く野沢屋、松坂屋、松屋、丸井、中華の博雅など昔の伊勢佐木町が蘇る画像をUPいただき、ありがとうございました。

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