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69回目の終戦記念日、当時の悲劇を戦争の語り部「神倉稔さん」が語る!

ココがキニナル!

かつて横浜は戦場だった。横浜大空襲は多くの死者を生み、人々の運命を変えた。その記憶を後世に伝えたい。終戦記念日の本日、東小学校の惨劇を体験した神倉稔さんのお話を伺う。

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ライター:松崎 辰彦

野毛山公園を目指して逃げる



1945(昭和20)年5月29日、8時15分あるいは20分、ラジオから「警戒警報発令」という声が聴こえた。「『警戒警報』はまだ大丈夫です。これが『空襲警報』になると防空壕に避難します」
そのとき家にいたのは神倉さんと母親、そして弟。父と兄、姉は仕事で外出していた。警戒警報からほどなく空襲警報に代わり、3人は防空壕に入った。

 

当時の防空壕(フリー画像より)
 

30分ほどすると警防団の男性が来て、「逃げろ!」と叫びながら防空壕の扉を叩いた。外に出ると、あちこちから黒い煙と火の手が上がっていた。このまま防空壕にいたら蒸し焼きになってしまう。

「私たちは野毛山公園を目指しました。当時の野毛山公園には低灌木(ていかんぼく)があり、火災から私たちを守ってくれると思ったんです。また地上から飛行機を落とす高射砲がすえられてもいましたから、あそこなら大丈夫と思いました」

 

地図を前に説明する。黄色い点が当時の神倉さん宅(クリックして拡大)
 

誰も考えることは同じと見えて、大勢の人々が野毛山を目指した。神倉さんの家族もその流れに乗って、必死に逃げた。
「黒煙の中から焼夷弾がバラバラ落ちてくるんです。それが直撃したら死んじゃう」
焼夷弾が降ってくるたびに3人は道路にうつ伏した。

しかし、4メートル先の道路に焼夷弾が突き刺さった。不発弾で燃えなかったが、その次に向こうの道路に落ちた焼夷弾が爆発し、道路は一面火の海になった。
「もう前には進めないわけです。それで“そうだ、東小学校は鉄筋コンクリートだった”と思い出して、今度は東小学校に行き先を変えました」
そこから東小学校まで、50メートルもなかった。



運命の東小学校



当時の東小学校は役所の分庁舎として使われていたが、神倉さん家族は西の昇降口から中に入った。
「あとからあとから人が逃げて入ってきました。200人は下らなかったと思います」
校舎の中では「早く行け!」という怒声と罵声が飛び交い、さながら満員電車のようであったという。

 

現在の東小学校
 

東小学校は当時としてはモダンな建物で、スロープがあってそのまま屋上まで到達できる構造だった。中に入った人々は大変な混雑の中、押し上げられるように階段やスロープで2階、3階へと上っていった。押し合いへし合い、神倉さんは転んだり突き飛ばされたりする中で、母親や弟とはぐれたことに気づいた。必死で「お母さん!」と叫んだが、無論返答はなかった。

やがて運命の瞬間がきた。

 

野毛坂の上から撮影された写真(画像提供:横浜市史資料室)
 

「東小学校は丘陵地(きゅうりょうち)の中腹にありますから、市街地が燃えているその熱気がどんどん上がってくるんです。そして床も木造で、油が塗られていました」
もちろん校舎にも焼夷弾が降り注いだ。時間とともに内部の温度が上昇し、ある限界を超えると窓ガラスが一挙に吹き飛んだ。大火災が発生したのである。当時、東小学校には市民に配給する3日分の砂糖がストックされていて、それに火がついたのだと神倉さんはいう。

「火事は2階、3階に起きたんです。地獄絵図だったと思います」
1階にいた神倉さんは旧音楽室の窓から外へ逃げた。校庭の中央にマンホールがあり、その脇にしゃがんでいると、同じように逃げてきた人が5〜6人いた。見知らぬ同士が防空頭巾に火がつかないように、互いに火の粉を払いながら肩を寄せ合った。それでも火の粉が飛んでくるから、熱くていられなかった。

 

「この窓から外に逃げ出しました」
 

そのとき、中の一人の大人がマンホールのふたを開け、中の水を自分の鉄帽ですくってほかの人たちにかけた。神倉さんたちにとって、これは天の助けだったという。
やがて火勢が衰えて、マンホールを囲んでいた人たちは(助かった…)と安堵した。

「それまで黒煙で真っ黒だった空に明るい陽が差したんです。それで“ああ、いま昼間だったんだ”と思いました」
東小学校に逃げ込んだ人々で生き残ったのは、マンホールを囲んでいたこの数人だけで、中にいた人はすべて焼死した。

 

野毛の焼け跡風景(画像提供:横浜市史資料室)
 

当日は、熱くてとても中には入れなかった。翌日、眼に涙をためた稔少年が兄とともに校舎内に入ると、人間の骨が床に敷きつめられていた。
「外を歩いても、道路の真ん中で亡くなっている人は少なくて、多くの人は脇にあるU字溝に入って亡くなっているんです。少しでも火から遠い所、水に近い所に逃げようとして、一列になって亡くなっているんです」

 

空襲で焼け死んだ遺体を見る(テレビ画像より)
 

誰もが着衣が焼け、背中がケロイドになっていた。死後硬直が始まり体が固くなっていたので、神倉さんと兄は遺体の頭と足を持ってひっくり返し、顔を確かめて、母と弟を探した。

遺体の中には赤ん坊を抱いた母親も少なからずいたが、みな自分のお腹の下に赤ん坊を置いて、かばうようにして死んでいた。「赤ん坊は誰も焼けていませんでした」神倉さんは回想する。
母と弟の遺体は見つからなかった。



人間としてのあり方が教育されなければならない



神倉さん一家は、終戦まで横浜に暮らした。その後、両親の実家のあった藤沢市で親族の世話になり、その後は同市内に建設された戦災復興住宅に入居して学生生活を送った。
武蔵工業大学工学部建築学科に入学した彼は卒業後、東急不動産に入社して個人宅の設計や戦後の街づくりを行い、さらに海外プロジェクトにも参加して日本の経済成長を支えた。

 

中川駅からほど近くにある東京都市大学(旧武蔵工業大学)
 

「戦後一番辛かったのは、食べるものがなかったことです。サツマイモのツルを煮て、食べるなどしました」
忘れられない思い出がある。高校時代、神倉さんはサッカー部に所属して厚木高校と試合をしたことがあったが、そのとき厚木高校の応援団が「グリーンピースは白米に勝てねえべ!」と声をあげたのである。

 

1950(昭和25)年、神奈川県立横浜第一高等学校時代の神倉さん(当時18歳)
神奈川県大会で優勝した(画像提供:神倉稔)
 

「当時、アメリカからグリーンピースが援助物資として日本に送られてきて、それを私たちは米に足して炊いていたんです。一方厚木高校は農家が多いものですから普通のご飯が食べられる。そのことをいっていたんです」神倉さんは苦笑する。

 

白米(フリー画像より)
 

神倉さんとサッカーの縁は続き、地元の小学校のサッカーチームのコーチを36年間続け、さらに2002(平成18)年に日本で開催されたワールドカップの運営にも関わった。

「子どもたちには人への感謝と思いやりを持てといっています。あるときこういうことがありました。ある大会で、私たちのチームが相手チームに7−0で勝ったんです。最後に相手と握手するとき、うちのチームの子どもが相手チームの子どもに『てめえヘタクソ』といったそうなんです。
相手の子どもがそのことを帰宅して母親に告げると、母親はそれを問題視して、回り回って私の耳にも届きました」
神倉さんは自分のチームのその男の子を呼び出し、事実関係を質(ただ)して、先日自分が暴言を吐いた子どもに謝らせた。

 

1980(昭和55)年ごろの神倉さん。小学生を指導していた
(画像提供:神倉稔)
 

「ペーパーテストがすべてでコミュニケーション能力がない若い人がいます。そういう人が官僚になったりすると、血の通った行政ができません。お金がすべてという価値観が、人を歪ませています。
これからもっと、人間としてのあり方が、教育されなければならないと思います」
小学校でも講演をすることが多い神倉さん。無数の「理不尽な死」を目撃したからこそ、次代を担う若い命に期待するのであろう。



取材を終えて



野毛山の高射砲は、現在の野毛山動物園の中にあったという。平和の象徴である動物園も、その昔は人々の怒声、罵声、 悲鳴が飛び交う場所だった。

東小学校での大量死は、想像するだに恐ろしい。逃げ場を失くした空間で、人々は生きながらにして炎に包まれ、骨になるまで焼かれたのである。
こうした事実を現在、何人の横浜市民が知っているだろう。

「戦争を知らない世代に平和のありがたさを伝えたいと思います。戦争は二度としてはなりません」

一昨年、東小学校で子どもたちを相手に戦争の話をした神倉さん。その後、生徒一人ひとりが感想を寄せてくれた。みずからを「戦争の語り部」という神倉さんの活動はこれからも続く。


─終わり─

 

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  • 戦争は悲惨なものであり、残酷なものであることは100パーセントの人が知っているはずです。だからこそ私たちは戦争を、起さない、また被害を受けないように努力する事が大切だと思います。しかし、日本が何もしなければ、戦争にならないと考えている人たちがいまだにいることに驚きと、不安が有ります。方法は色々あると思いますが、戦争を未然に防ぐ努力は絶対必要です。

  • こういう話はどなたの話でも、常に聞きたいと思います。何度でも、ここで取り扱ってください。  戦争はもう絶対にしてはいけない。そのためには、今ネット上である様々なプロパガンダに騙されないで、戦争反対というシンプルで明確な意思を貫き通す事です。愛国心という麻薬で見境なく敵だ、反日だという声に耳を傾けてはいけない。日本も同じ様に、過激なのは一部で、それが過半数ではない。

  • 母方の家系は少なくとも祖父の代には横浜に洋菓子店を経営していましたが、空襲で店舗兼自宅は跡形も無くなり正確な情報ではないかもしれませんが、いわゆる火事場泥棒的に土地を何者かに取られたらしいです。杭と縄で所有を知らせる看板などを先に立てた者が所有者とみなされたそうです。不幸中の幸いで家族で誰も戦死しなかったので、土地はささやかな犠牲だったのかもしれません。

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