「東京湾要塞の要」、横須賀・観音崎にある砲台跡の歴史は?
ココがキニナル!
三浦半島には戦争に関連する物がいくつか残っています。三浦半島に残る戦時中の話を取材してくれませんか?観音岬にある砲台跡だけでも(Shokaiさん)
はまれぽ調査結果!
首都・東京をはじめ横須賀軍港や横浜港など、戦略的に重要な拠点を守るために築かれた東京湾要塞。その要として設置されたのが観音崎の砲台だった
ライター:やまだ ひさえ
東京湾要塞における観音崎の意義
戦前における日本の軍事的な歴史を振り返ったところで、今も観音崎に残る砲台の跡をめぐっていくことにする。
観音崎は、横須賀市の東端、東京湾の一番狭い場所に位置している。
東京湾で一番狭い
観音崎が東京湾要塞の拠点に選ばれたのは、湾口にあり対岸との距離が狭いという点があげられる。このほか、富津に比べてなだらかな起伏が続く丘陵地であること、湾口が北西方向に湾曲している中心部にあり、侵入してくる敵艦船に対する砲台を設置するのに最適な地形だったこと大きく影響している。
このため、1880(明治13)年に日本最初の砲台の工事が始まって以来、防衛の拠点として最適な地形を有する観音崎には8台の砲台が設置された。
1903(明治36)年現在で観音崎に設置された砲台図
(『新横須賀市史 別編軍事』より)
東京湾要塞において1ヶ所にこれだけ集中して砲台が設置されているのは珍しい。観音崎は、それだけ重要視された場所だったといえる。
しかし、8台あった砲台は大正時代に5台が除籍。昭和に入り終戦までに残り3台が除籍され、現在は、県立観音崎公園内に遺構が残されている。
公園内にある観音崎灯台
観音崎は、1868(明治元)年に日本初の洋式灯台が建てられた地であり、8台の砲台はすべて、灯台と同じ明治時代に建設されたもの。
「観音崎第二砲台」は、1880(明治13)年5月、日本で最初に着工された砲台だ。
観音崎第二砲台跡
北側の稜線上にある観音崎第二砲台は、右翼砲座から左翼砲座にかけて段々になっている全国でも珍しい砲台。その姿から「だんだん砲台」と呼ばれていた。
坂にそってならんでいる
指令所や観測所も設置されており、日露戦争では6門が戦備されていた。しかし、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって大きな被害を受け、1925(大正14)年に除籍された。
「観音崎第一砲台」は、東に面した場所にある。
観音崎第一砲台跡
資料によっては「北門第一砲台」とも呼ばれる観音崎第一砲台は、1880(明治13)年6月、日本初の砲台である第二砲台に10日遅れて着工された。
第一砲台と第二砲台は、当時の陸軍卿・大山巌(おおやま・いわお)に、同じ日に着工伺いが提出されているが、何らかの事情で第一砲台の工事開始が遅れたと思われる。
遅れた理由や名前が変更になっていない理由は、詳しい資料が不明のためわからない。
24センチ加農(カノン)砲2門が設置されていた
日清戦争では戦備についた歴史ある砲台だが、1915(大正4)年、除籍になっている。
標高74メートル。観音崎地区で一番高い場所に設置されたのが「観音崎第三砲台」だ。
レンガ造りの隧道の奥にある
歴史を感じさせてくれる隧道の内部
観音崎第三砲台跡
1882(明治15)年に竣工された観音崎第三砲台は、当初、「第四砲台」と呼ばれていたが、1893(明治26)年、それまでの第三砲台が廃止されたため、繰り上げて第三砲台と呼ばれるようになった。
右側の砲座は北向き、左側の砲座は東北を向いて設置されており、敵艦が東京湾の最狭部を通過しているときに砲撃できるようになっていたが、1925(大正14)年に廃止。現在は、「海の見晴らし台」になっており、外国軍艦への礼砲用の砲台が据えられている。
海の見晴らし台
房総半島を望むことができる。
観音崎地区で終戦まで存続していたのが、観音崎第四砲台だ。現存する施設もあるが、現在は、海上自衛隊警備所になっているため、内部を見ることはできない。
円筒形の建物は、潜水艦を探索するための水中聴測所
水中聴測所の向こうに第四砲台がある。
南東の海に面して設置されたのが観音崎南門砲台だ。
観音崎南門砲台跡
1892(明治25)年に起工。上陸する船艇に射撃することを目的に設置が急がれたが、日清戦争には戦備が間に合わず、日露戦争で戦備された。関東大震災で被害を受け、1925(大正14)年に廃止。現在は、観音崎自然博物館、ビジターセンター、展望園地になっている。
三軒家(さんげんや)砲台は、関東大震災で被害を受けたものの復旧。1934(昭和9)年まで配備されていた砲台だ。
三軒家砲台跡 (同)
標高約50メートルの高台にある三軒家砲台は、第三砲台の廃止を受け、1894(明治27)年、急遽、建設が計画された砲台。北東に面して6門が設置された砲座は、その跡が今も残っている。
観音崎地区には、内部への敵の侵入を防ぎ、海岸線に沿って配備された砲台を援護するための堡塁(ほうるい)も造られていた。現在、戦没船員の碑が建てられている場所にあった大浦堡塁と、「うみの子とりで」の付近にあった腰越(こしごえ)堡塁だ。
大浦堡塁のあった場所には戦没船員の碑がある
腰越堡塁 (同)
両堡塁とも1895(明治28)起工、1925(大正14)年に廃止になっている。大浦堡塁は遺構と呼べるものは残っていないが、腰越堡塁は、堡塁時代の地形を生かした子どもの遊び場になっている。
腰越砲台以外にも利用されているものがある。
明治時代に造られた弾薬庫だ。砲台とは切っても切り離せない関係にある建物だ。
改修し、パークセンターとして利用されている
色がくすんでいるのが明治時代のレンガ
建物の下が半円になっているのは、湿気対策のためだ。
観音崎に残された幾つもの砲台跡。
実際の戦闘で使われることはなかったが、民家のすぐ近くにまで軍靴の音が聞こえていたという。
軍靴の音さえ聞こえない時代になってほしい。そう願わずにはいられない。
取材を終えて
三浦市在住の筆者には、戦跡は昔から目にしていた場所だ。改めてその地に足を運び、配備されることも、使われることが二度とあってはいけないものだという思いを強くした。
―終わりー
横須賀市役所
電話:046-822-4000
県立観音崎公園 (ビジターセンター)
住所:横須賀市鴨井4-1120
電話番号:046-843-8316
ホトリコさん
2016年04月09日 19時14分
横須賀は海の最後の砦。今の海上自衛隊も、撃沈の心配を先取りしただけでなく、諸々の事情で旗艦は廃止して、全ての指揮を横須賀の基地に置いているそうだ。
Shokaiさん
2016年04月08日 16時28分
取り上げていただいて、ありがとうございます!とても興味深く読ませていただきました。
マッサンさん
2016年04月08日 00時07分
記事の中での写真や図を見て空想を巡らせてしまった。乾いた軍靴の足音が聞こえ、大声で叫ぶ声が聞こえ、軍勢のあわただしい動きが見え隠れする。大砲音が鳴る、砲口からの煙、弾薬の臭い。大砲から撃たれた弾(たま)は放物線を描いていた……。? そんな筈はない。(笑)