バス停なのに駅?生麦~大黒ふ頭間の「新興駅」の由来とは!?
ココがキニナル!
生麦から大黒ふ頭に行く途中に「新興駅」という交差点があるのですが、駅がないのになんで新興駅なんですか?(山葵さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
以前、JR貨物の駅舎「新興駅」があったので、そのことに由来していると推測されます。現在は、横浜市によって整備され「貨物線の森緑道」となっています!
ライター:吉川 ゆこ
高度経済成長期、激動の時代を貨物線は走った (続き)
新興線からさらに会社線と呼ばれる線路を各工場の敷地内まで引き、貨物車を送りこむ。荷物を積んだ貨物車は、集荷場となっていた新興駅に集まり、新興線から高島線、そして全国各地へと走っていった。
高度経済成長期、物流を支えていたのは電車だったのだ。
飯田さんは多い日で130~150にも及ぶ車両を入れ替えていたそうだ。
「なぜ駅舎名を“新興”としたのかはわかりませんが、新しく興すだから発展を望んだような名前ですよね。私たちは入れ替え係と言って、運ぶものによって変わる車両を入れ替える仕事をしていましたが、とても忙しく24時間体勢でフル稼働していましたよ」
『新興3地区駅』があった場所には「貨物線の森緑地」という緑道ができている
貨物線の駅舎の名称にそんなにこだわったとも思えない。
何となくというと安易に聞こえるかもしれないが、そんな感じだったのだろう。
『新興1地区駅』のあった場所は、手つかずの空き地になっている
幻となってしまった新興線の面影を見ることはできるのか?再度現場に向かった。
廃線の跡を見て歩く
飯田さんの話では、飯田さんが新興線の業務から離れる昭和62年前後にはすでに一時の勢いを失い、貨物の量も激減していたそうだ。
平成15年に最後の会社線が廃止されたことで、新興線もその役目を終えた。
線路が走っていたであろう場所に外壁が残っている。
1mにも及ばない高さに土が盛られ、その上に線路が敷かれていた
名残がリアルに見られるのは橋りょうだろう。布袋橋にて
橋りょうの跡は新興駅交差点に近い寿老橋でも見られる。
荒地の中に産業遺産を見つけると、何だか感慨深い。
取材を終えて
現在の新興駅交差点付近はトラックの往来が激しく無味乾燥といった場所だが、飯田さんの話を聞いて改めて交差点に立つと、同じ景色も違って見えた。
なぜ新興駅と名づけられたかについては憶測の域を越えないが、道路標識令の設置基準を念頭に交差点の名称などを見ていくと、新興駅と同じような時代の痕跡を見ることができる場所は横浜市内にもたくさん残っているだろう。
もっと探しに出かけたいと思った。
―終わり―
よこはまいちばんさん
2016年02月02日 14時11分
ドア・ツー・ドアが出来ない不便さはあっても、トラック輸送による大気汚染や交通渋滞・過酷な労働条件による交通事故多発などなど。再三見直しを言われながらも一向に改善されない貨物輸送環境。国策として拠点間輸送は鉄道として、地域間のみトラック輸送などを強制するように、完全分業とする必要があると日々感じている。しかし・・・通常は施設の廃止・変更などは直後ではないものの、交差点名やバス停名などは新たに相応しい名称に変更されるのが一般的ですよね。なぜ変更をしないのかまで取材が必要だったのでは?
ynekoさん
2014年01月17日 23時06分
かつてこのバス停の横にはいくつもの線路があり、ヤードと言われる貨物の「新興駅」がありました。時代ともにヤード線も縮小され、最後の昭和電工、内外輸送さんの会社線を最後に廃止さました。今でも面影があるのは、日産横浜工場よこの鉄橋と現佐川急便横の運河の鉄橋となりました。この手の貨物引き込み線もJRのダイヤ改正ごとに縮小され、今でもみられるのは鶴見線安善の米軍のオイル線・扇町奥の石炭輸送線・根岸~本牧からの神奈川臨海鉄道の輸送線と数線のみとなってしまいました。
inopyonさん
2013年02月09日 12時20分
10年ほど前大黒町の近鉄物流㈱(現近物レックス㈱)勤めていて、私が在職中はまだ新興に貨車が入ってきていました。退職のためこの地を離れるときには線路もはがされ、草ぼうぼうの荒れ地になっていましたが公園になっている場所もあるんですね。横浜には今でもよく行くのですが、前職でまわっていた大黒ふ頭や本牧ふ頭の界隈は久しく行っていませんので久しぶりに訪ねてみようかと思いました。