鎌倉市北西部「島ノ神」、内陸なのに島ってなぜ? 地名の謎を追う
ココがキニナル!
鎌倉市関谷の県道312号にあるバス停「島の神」。名前の由来は何でしょうか。周辺を探しても神が祀られていそうな社もありませんし…「島の神」とはどのような神様なのでしょうか。(かまくライダーさん)
はまれぽ調査結果!
縄文時代「島ノ神」周辺は海に近く、その海に浮かんでいた半島の上部にあたることから、「島の上(かみ)」と名付けられた可能性がある。
ライター:小方 サダオ
縄文時代「島ノ神」の近くに海はあったのか
前出の山のふもとに住む女性から「山肌から貝の化石が見つかった」との「島ノ神」の「島」のキーワードに結びつきそうなヒントをもらった。
さらなる詳しい話を求めて関根さんに伺ってみると、「縄文時代は海岸線が近かったため、このあたりに海に浮かぶ島があった可能性はあります。縄文時代の遺跡に関しては、関谷には東正院遺跡、島ノ神遺跡があります」
交差点から400メートルほどの場所にある島ノ神遺跡
「100万年前の更新世(200万〜1万年前の地質時代)のカキの化石が、『島ノ神』の交差点から1kmほど離れた小雀浄水所のあたりから出て、それがこのあたりまで海であったことの証拠といわれています」と答えてくれた。
「島ノ神」周辺は縄文時代には海だったため、「島」との名がついたという説には信憑性を感じられた。
発掘された土偶の破片や矢じり
石斧の一部
貝の化石
化石発掘に関する1975(昭和50)年の新聞記事
「島ノ神」の由来について、最後に関根さんの推測を確認。
「神様とは関係なく、今の島ノ神地区が島になっていて、その上部に当たっていたからだと思います」とコメントをいただき、お別れをした。
縄文時代の「島ノ神」周辺はどのような様子だったのか
「島ノ神」地区は広く、横浜側の前出の遺跡があったあたりへと向かった。そこは畑が広がり、鎌倉野菜(鎌倉近郊の畑で栽培されたブランド野菜)の生産地になっていた。
島ノ神遺跡が発掘されたあたり
一帯に畑が広がっている
続いて海が近かったという縄文時代の「島ノ神」の地理について検証してみた。
『玉縄の歴史と文化』という資料によると、境川とその支流流域に面する台地上では縄文時代以降各時期の遺跡が営まれていた、とある。
縄文時代の鎌倉地形想定図(『玉縄の歴史と文化』より。以下同)
現在の地図と比較したもの。「島ノ神」(青丸)
1万年前は氷河・寒冷期がほぼ終わり、気温が上昇し始めたことで海進現象が起こった。海岸線が鎌倉市の内陸部まで深く入り込んで、市内の平地はほとんどが海になったようだ。
現在の藤沢市街の大部分を海底にして、左岸は南に延びて片瀬に達し、その先に江の島、西からは大庭(おおば)入り江、大船入り江、藤沢入り江が深く湾入。
「島ノ神」(青丸)。各入江(緑矢印)と江の島(紫矢印)
大船入り江は戸塚区下倉田付近まで深く湾入し、その北岸の現・藤沢市高谷、鎌倉市植木・岡本に小入り江を形成。高谷小半島の先に藤沢市宮前に島(現在の藤沢市宮前、御霊神社がある場所にあたる)を浮かべていたという。
「島ノ神」(青丸)。各入江(緑矢印)と宮前の島(紫枠)
比較図を拡大したもの。「島ノ神」(青丸)
1万年前は鎌倉市の奥まで海岸線が浸食していて、「島ノ神」周辺はいくつもの半島・小半島や島などが浮かぶ光景になっていたようだ。
また、余談ではあるが前出の東正院遺跡と島ノ神遺跡について。
関谷地域の縄文時代の遺跡は、台地と谷戸のある丘陵地形の平坦地に竪穴式住居を作っていて、出土品から、狩猟、漁猟の生活をしていたことが分かった。
縄文時代の住居跡
そして約3000年から2000年前ごろになると、気候の変化で海退現象が始まり、海水が引いた河川の上流部や丘陵地などの集落が発生し、湿地帯が広がっていた。
古墳時代においては、河川が重要で戦略的な役割を持っていた証拠が残っている。
関谷字下坪の洗馬谷戸には横穴古墳があるが、その第二号墓の壁には、船に乗り、盾を持ち、弓を射合っている絵が描かれているのだ。そのころの玉縄付近は広い沼地と河川があり、地元有力者同士の水上船による領地争いが描かれているのかもしれない。
横穴古墳の壁画
水上船による領地争いの風景か?
「島ノ神」の名前の由来に話を戻したい。
「島ノ神」の場所を、縄文時代の鎌倉地形想定図で見てみると、大船入り江と藤沢入り江によって生まれた半島の上部に位置するようだ。
前出の関根さんの説を元に考察すると、「島(半島)の神(上《かみ》=上部)」ということになるのだろうか。
「島ノ神」(青丸)は半島(緑枠)の上部に当たっている
また半島の下に浮かんでいた島があったようで、これらの島の上の方に位置していたから「島の上」であったのか、とも想像できる。
これらの島の上部にあたったから「島の上」であったのだろうか
最後に、前出の1万年前、海に浮かぶ島だった場所にある藤沢市宮前の御霊神社について。
調査を進めると、県内に16社ある御霊神社の分社のうち、ひとつが「島ノ神」の近くにも御霊神社があったことが分かった。
本社である宮前の御霊神社は、かつて海に浮かぶ島にあり、まさに「島ノ神」状態だった。そのため、近隣の御霊神社を指して「島ノ神」との地名になったことも考えられた。
しかしそもそも宮前の御霊神社が、縄文時代は島の状態であったとしても、創建の鎌倉時代には海岸線の関係でその場所は既に海ではなかったため、「島ノ神」然としていた時期はなく、その可能性はないといえる。
取材を終えて
前出のように、「島ノ神」は「島にある神様」ではなく、半島の上部に当たったという意味であったのではないだろうか。当て字の変化によって「島ノ上」から「島ノ神」と変わってしまったのではないだろうか。
「Shimanokami」
ー終わりー
mimichanさん
2017年09月10日 08時36分
多くの皆さんの意見に同意します。縄文時代の日本語がどのようなものであったかほとんど解明されていない。数千年前から「シマ」などという語が今と同じような意味でつかわれていたか、かなり疑わしい。前に埼玉県の川口という地名について海に川が流入するところという解釈をした埼玉大学の教授がいた。いわゆる縄文海進時代のことを想定していたようだが、その時代から何千年もこの地名が使用されていたのか?という批判があった。川口は多くのほかの地方の川口と同様、一本の川にほかの川が流入するところ、という解釈に疑問の余地がないだろう。「シマ」は海にばかりあるのではない。土地の高まり、に対して使用される言葉だ。縄文だ弥生だとほとんど根拠がない考察は意味がない。それよりもっと視野を広げてほかの地方でこの語彙がどのでどのように使用されてきたかを調べれば、縄文などという言葉は出てこないだろう。
ねむねむさん
2017年07月28日 17時57分
縄文海進期まで遡るのは、ちょっと行き過ぎじゃないですかねぇ。感覚的なものですが、いくら何でも古すぎるかと。
ushinさん
2017年07月21日 19時26分
ところで、島やら半島があった縄文時代から口伝で伝えられたとして、縄文時代に「島」を「し・ま」と発音していたんだっけ?