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横浜に湘南? 場所を転々とした不思議な元「湘南富岡駅」、「京急富岡駅」の歴史を教えて!

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京急富岡駅は「湘南富岡」の駅名で開業当初は今の場所にあり、戦時中に一時営業を停止。昭和22年に移動、8年後に再び元の場所に移転し現在の場所に。移転を繰り返した理由は?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

海水浴客の利用を見込んで「湘南富岡駅」が作られ空襲で焼失。戦後米軍の希望で移転、昭和30年に地域住民の利用に不便だったため現在の場所へ

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ライター:橘 アリー

初代湘南富岡駅は地元住民の強い要望で駅が作られた!

 


慶珊寺の境内の様子

 
19代目ご住職の佐伯隆定(さえきりゅうじょう)さんにお話を伺った。
ちなみに、慶珊寺はヘボン博士が滞在したと言うお寺で、今でも、その時に門に掲げた木の札が残っている。
 


ヘボン博士が滞在を記した札の様子

 
そして、佐伯住職は2013(平成25)年11月に、「武州富岡史話」という本を出版し、「湘南富岡駅」があった当時の様子などが記している。
 


「武州富岡史話」

 
佐伯住職によると、1930(昭和5)年、湘南電気鉄道が開通した時、最初は富岡に駅を作る予定はなかったそうだ。
理由は、当時、富岡地域の世帯数は90戸ほどで、駅を作っても採算が取れないと見込んだから。

しかし、地元の人々からの駅を作ってほしい、という強い要望があり、地元の有力者で地主であった鹿島源左衛門(かしまげんざえもん)が湘南電気鉄道と交渉。駅を作ることになり、湘南電気鉄道側から、「駅を作るんだったら海水浴場を作ってくれ」と言われたらしい。地元住民は90世帯しかいないが、海水浴客が利用するなら採算がとれるだろう、とのことだった。 

前述の通り、「湘南富岡駅」と名付けられたのは湘南電気鉄道の路線の富岡にある駅だから。「湘南電気鉄道」は、横浜から逗子や葉山などの湘南地区までの海沿いの地域を通るのが名前の由来。富岡も海が近かったために、「湘南富岡駅」が作られた。
 


海水浴場があった場所の全景(海側から見た様子)

 
中央の富岡八幡宮の赤い鳥居の右側(記念碑がある方向)が海水浴場で、左側の木が生い茂っている小高い山が八幡山。
当時は「海の前の断崖絶壁」といった様子だった。現在も、小高い丘のまま残っている。
 


「京急富岡駅」のホームから見える後方の小高い山が八幡鼻(現在は八幡山)

 
駅から海水浴場がとても近かったことが分かる。

富岡の青年団が中心になって、海岸にヨシズ張り(すだれ)の小屋が作られ、1931(昭和6)年に海開きが行われた。
1930(昭和5)年に仮駅が作られ、翌年に駅に昇格。背景には、そんな経緯があったのだ。

海水浴場は、駅から約徒歩5分という近距離にあったこともあり、戦争の時期を除いて、1965(昭和40)年ごろまでにぎわっていた。海水浴のシーズンでない時は、駅の利用客が少なかったため、「富岡で降ります」と言わないと停めてもらえない、なんていうこともあったのだそう。これではまるで、バスのようだ。
 


八幡山の岸壁の様子(左)「武州富岡史話より」
 

八幡山の前まで海だった頃の様子「武州富岡史話より」

 
続いて、「鳥見塚バス停」近辺に二代目「湘南富岡駅」が移転した経緯について。
1945(昭和20)年6月10日の空襲で、「湘南富岡駅」の駅舎は全壊。駅の近辺でも多くの死者が出た。

終戦後、線路は間もなく復旧したが、新しく駅舎を建てるにあたり、現在の神奈川警察機動隊・第一機動隊がある場所(富岡東)を米軍が接収。米軍の関係者の交通手段として活用すべく、現在の鳥見塚に駅舎を移すことになった。
地元住民の希望ではなく、米軍の希望を優先した形で新しい駅が作られたのだった。
その当時、鳥見塚近辺には、民家は2軒ほどで、道には街灯もなく、とても寂しい場所だったのだそう。

1945(昭和20)年から1955(昭和30)年までの10年間は、初代の湘南富岡駅を利用していた地元住民にとっては不便な立地だった。
 


この道の先に、米軍が接収した地域があった

 
住職は、大学生だったとき、この駅から学校へ通っていたそうだ。駅舎は木造の粗末なもので、プラットホームも木造。近くに踏切があった。
朝晩は、そこそこ乗降客もいたが、日中、学校の試験などで早く帰って来ると、客は一人だけ、ということもあったのだそう。そんな時は、駅員さんに申し訳ないな、と感じたらしい。
 


三代目「湘南富岡駅」の様子(「翔べ金沢/発行:金沢区役所」より)

 
そして、1955(昭和30)年に接収が解除、富岡に住宅も増え、二代目湘南富岡駅のあった「鳥見塚」では不便だということで、現在の場所にもどってきた。

続いて「京急富岡駅」と名前が変わった経緯を京浜急行の年表を参考にひも解いてみる。

1941(昭和16)年11月1日に湘南電気鉄道は京浜電気鉄道と合併して解散。
三代目の場所に移転した1955(昭和30)年、駅名は「湘南富岡駅」のままだったが、湘南電気鉄道の駅ではなくなったため、1963(昭和38)年に、京浜急行の駅であることから「京浜富岡駅」となり、翌年の1964(昭和39)年に京浜急行の社名の冠称が「京浜」から「京急」に変更となり、順次改定が行われ、富岡駅は、1987(昭和62)年6月1日に「京急富岡駅」となった。
 


二代目湘南富岡駅ができた直後、1947(昭和22)年の富岡の様子
 

2004(平成16)年の富岡の様子。住宅がかなり増えているのが分かる

 



取材を終えて



現在の「京急富岡駅」も住宅地にある庶民的な駅であり、違う場所にあった「湘南富岡駅」も、庶民の足として親しまれていた駅だと分かった。
そんな「京急富岡駅」で降りて、「湘南富岡駅」と呼ばれていた当時の様子を思いながら周辺を散策してみてはいかがだろうか。


―終わり―
 

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  • 私が東京から富岡に越してきたのが、昭和45年。初めて富岡駅を降りたら、「海水浴場入り口」の看板があり、リゾート地に越してきたような気持ちになりました。たぶん、そのころが海水浴場として最後の年だったように記憶しています。その後、海岸は次々と埋め立てられて、新しい街が出来上がっていきました。長浜の結核療養所や伊藤博文の別荘、井上馨の住宅などがあった富岡地区は、古くから風光明媚な保養地だったのでしょうね。

  • 昭和35年頃、この富岡の海で泳いだ思い出があります。16号線から樹木が生い茂った路地を入ると今で言うプライベートビーチを持つ保養施設のような日本家屋がありました。長い縁側から、海を隔てて房総の山々が見えたのを、子供心に「素敵な場所だ」と感じ、今も印象的に記憶に残っています。

  • 富岡で生まれ育ちました。この記事に書かれていることは、切れ切れに聞いてはいたのですが、こうして取材をもとにまとめられていると、知識の断片がつなぎ合わされ、さらに知らないこともたくさん書かれていたので、体系的に知ることができておもしろかったです。さすがに足を使われた記事だけあって、読み応えがありました。

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