400年の時を超えて発見! 南区蒔田、横浜英和女学院裏にあった幻の城「蒔田城」とは?
ココがキニナル!
横浜・南区蒔田町の横浜英和女学院の界隈、横浜・戸塚区舞岡町に、正真正銘のお城が存在していたと言われていますが本当でしょうか?(マッサンさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜英和女学院の裏にあったとされているのは「蒔田城」。吉良氏の居住していた城の可能性が高いが確かな証拠はなし。舞岡に城はなかった
ライター:やまだ ひさえ
まぼろしの城の今
小さな「火鉢のかけら」で存在が明らかになった蒔田城。出土した横浜英和学院に保存されていると聞き、見せてもらいに行くことにした。
横浜英和学院は、1880(明治13)年、山手の居留地に創設されたキリスト教系の女学校がはじまり。
明治時代の日本ではまだまだ珍しい女性の教育と自立を目指して開校された学校は、初代の学長の名前を取り「ブリテン女学校」と名付けられた。
開校当時のブリテン女学校 (提供:横浜英和学院)
創設者ミス・ブリテン (提供:横浜英和学院)
1886(明治19)年には、「横浜英和女学校」と改名。生徒数もスタート時の4人から増え、山手の校舎では手狭になったため、移転を余儀なくされた。その候補にあがったのが、蒔田城のあった蒔田の丘だった。
1916(大正5)年、第8代校長ミス・ハジスの指揮のもと、横浜英和女学院は、蒔田の丘で新たなスタートを切った。
蒔田に移転を決めた第8代校長ミス・ハジス (提供:横浜英和学院)
移転当時の学校の様子 (提供:横浜英和学院)
学校の周囲には畑が広がっていた (提供:横浜英和学院)
明治、大正、昭和、そして平成と一貫して女性の教育に情熱を傾けてきた横浜英和学院は、現在も蒔田の丘にある。
横浜市営地下鉄「蒔田駅」を降りると、横浜英和学園の生徒たちが使う通学路がある。
生徒専用になっている通学路
この急階段の先に学校がある
階段を上ると小学校の校舎が出迎えてくれる
道なりに進むと、正門が見えてくる
正門横にある遺跡があったことを示す説明版
横浜市教育委員会によって立てられた「成美学園遺構」の説明版
横浜英和女学校は、1939(昭和14)年、太平洋戦争の影響を受け、敵国の名前を校名にしているのは不適切とされ、「成美学園」に改名した過去がある。遺構名が「成美学園」となっているのはそのためだ。
ちなみに、1996(平成8)年、元の校名をという卒業生たちの強い希望を受け、現在の「横浜英和学院」に改名したとのこと。
蒔田の丘に吉良家の居城があったことは、同校の百年史『成美学園百年史』にも記されている。
「小田原の北条氏の支城で、北条氏康<1515-71>の娘婿、吉良左平衛頼康(きらさひようえのすけよりやす)の館(やかた)だった」(原文ママ)
吉良家の居城があったことを伝える百年史 (提供:横浜英和学院)
今回の伺った目的である「火鉢のかけら」は、校内に設けられた「学園歴史展示室」に展示されている。
学園歴史展示室。案内してくれた事務の方の写真はNG
校内から出土した戦国時代の火鉢のかけら
校門横にある礼拝堂。このあたりに櫓(やぐら)があったと伝えられている
吉良氏がここに城を構えた戦国時代は、自然の地形を生かした山城が主流だった。その点からみても、蒔田の丘は最適の場所だったのだろう。
詳しい資料もなく、発掘調査も進んでいないので、どんな配置で、どんな建物が建っていたのかは、謎に包まれている。ただ、確かに実在し居城だった可能性を、小さな火鉢のかけらが教えてくれた。
その後の蒔田吉良氏
小田原北条氏の衰退によって力をそがれた蒔田の吉良氏だが、その後、徳川家康によって下総国長柄郡(しもうさのくにながらぐん)寺崎村(現在の千葉県長生郡沢町寺崎)に所領を与えられ、旗本として登用。江戸時代を生き抜いた。
蒔田の丘を離れた武蔵吉良氏だが、ここには、横浜英和学園のほかにもう一つ、この蒔田の地に吉良氏が存在したことを伝える場所がある。
勝国寺だ。
勝国寺
勝国寺は、横浜英和学園前の坂を下った場所にある曹洞宗のお寺。
1479(文明11)年、当時の城主、政忠が父・頼高の供養のために建立したと伝えられる、吉良家の菩提寺だ。
吉良氏の存在を伝える説明版
吉良家の菩提寺であることがわかる説明版
本堂に裏に広がる丘の上に供養塔がある
吉良家供養塔
供養塔の右奥に、横浜英和学園の校舎が広がっている
蒔田城の周囲は、地形も整備されているため戦国時代に城があったことを物語るものはない。それでもここに立つと、歴史の息吹を感じることができる。
本当にまぼろしだった舞岡の城
キニナルの投稿にあったもう一つのお城、舞岡のお城についても、横浜市歴史博物館で調べてもらった。
舞岡の城を調べてくれた横浜市歴史博物館
学芸員の阿諏訪さんのお話だと、横浜市内には100近い城があったらしい。その中には陣屋なども含まれており、避難場所のようになっていたものも城の一つとして数えられている。
舞岡のある戸塚区一帯には、岡津城(泉区岡津町:旧戸塚区岡津)、矢部城(戸塚区矢部町)、石川陣屋(戸塚区上矢部町)、小雀城(戸塚区小雀町)、俣野城(戸塚区俣野町)などが確認されているが、どれも舞岡から離れており、舞岡自体にはお城は確認されていないといことだった。
戸塚区一帯で城があったとされる場所
また、横浜市教育委員会文化財課でも調べてもらったが、「舞岡にお城があったという資料はない」という見解をもらった。
舞岡の城は、残念ながら本当のまぼろしのお城だった。
取材を終えて
時の流れのなかで、時代の形が変わり、人の生き方も変わった。
数百年前の資料が残っていないのは仕方のないことだと思う。でも、同時にとても残念な思いがした。
横浜英和学院に保存されている「火鉢のかけら」は、学校側の許可が出れば、一般の方でも見学することができる。興味のある方は訪ねてみてはどうだろうか。
取材協力
横浜英和学院
HP/http://www.yokohama-eiwa.ac.jp/
横浜市歴史博物館
HP/http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/koudou/go/museum/
―終わり―
みーちゃんパパさん
2015年08月10日 03時52分
惜しい、40年前なら語り部も存命でした!以前、弘明寺近くの若宮神社横に蒔田城の城門があり、その門番〔何十代目?〕が定時に開門閉門をしていたようです。若宮米店談、現在 同店主がご存命わかりませんが、その方に聞けば、かなりの詳細が伺えたかもしれませんね。
マッサンさん
2015年08月05日 08時42分
横浜市内には陣屋も含めて城が100以上もあったんですね。目が飛び出るほど仰天です。蒔田城が繁栄していた当時は今の南区役所近くまで海だったのにも驚きました。蒔田の地に城があった。歴史の息吹を感じながら空想するのも愉(たの)しいですね。
無縛さん
2015年08月04日 16時06分
横浜市立博物館編集の「蒔田の吉良氏」は私も読みましたが、世田谷城で発した文書等がほとんどで、蒔田に関する記事は僅少でした。究極すれば「かわらけ1つ」と言うことですよね。要するに100年前に英和学園が移転してきた時に、ミッション系なので日本歴史保存の志が薄く全部更地にしてしまったので、遺構もほとんど残っていないのですよ。キリスト教の傍若無人ここに極まれり、怒りすら感じます。