横浜の変わった地名「引越坂」の由来とは?
ココがキニナル!
「引越村(現・六ツ川町)…引っ越しの村?」「井土ヶ谷…井戸が多い谷?」「戸塚…扉の塚?」など横浜に点在する「なんとなくキニナル地名の由来」を新旧問わず調べてください!(スさん)
はまれぽ調査結果!
今回は「引越坂」「引越村」の由来を調査! 今も引越坂の名前が残る地名は、近隣の村々との関係性だった
ライター:はまれぽ編集部
「引越」の秘密は村の成立過程にあり!
写真ではそれと分からないほどに、おだやかな上り坂
平戸桜木道路を進んでいくと、横浜市立六つ川西小学校の前にある歩道橋の辺りで、上りの坂が終わり頂上が見えてくる。そこに、「引越坂」の標識があった。
道の両側は高台に。県道は谷間のように整備されている
バス停のある県道が「引越坂」!
今は県道平戸桜木道路として整備されているためか、なだらかな道という印象ではあるが、ここが引越坂で間違いがないようだ。
場所が判明すると、やはりキニナル地名の由来。かつてはここに、引っ越したくなるほどの急坂がそびえていたのだろうか? 真面目に考えると、「引越」は本来「ひきこし」と読むとか、綱を引いて峠を越した伝説があるとか、そういった変遷も考えられるが・・・。
分からないことは調べてみよう
横浜市中央図書館で調べてみると、引越坂の由来はかつて六ツ川が「引越村」と呼ばれていたことにあるようだ。
かの昌平坂学問所で編まれた『新編武蔵風土記稿』(1830年完成、全266巻)には、六ツ川にあった「引越村」の存在が記されていた。
80巻を参照すると、「往古弘明寺中里別所最戸久保合テ多々久郷ト唱ヘ一郷ナリシカ其後カク五ケ村ニ分レシ時其村々ノ民引越シテ一村ヲナシタレバ此名アリトイフ」とある。
つまり、かつてあった「多々久郷」が弘明寺・中里・別所・最戸・久保という五つの村に分かれたとき、それらの村から引っ越してきた人たちが作った村、なので「引越村」と呼ぶのだという。
「(引越村の由来は)ほかの村には伝わっていない」ともあるけど・・・(新編武蔵風土記稿80巻)
引っ越してきた人たちが作った村なので、「引越村」。そのまんまだが、いわゆる屋号とはそういうものだろう。
そんな「引越」という地名だが、今は残っていない。『横浜市史稿 地理編』(1932年、横浜市)によれば、一帯は1889年(明治22)年に「大岡川村大字引越」となり、1927年(昭和2)年に横浜市に編入する際、「中区六ツ川町」となって「引越」の名は姿を消したようだ。
それでも、坂道には「引越坂」として名前が刻まれている。現在は県道として整備されたこの坂道は、戸塚方面から井土ヶ谷方面を抜けて横浜へつながる東海道の裏道(近道)であり、人々にとっての貴重な生活道路だった。その親しみのためか、今も坂の標識やバス停として残っているのだ。
取材を終えて
引っ越してきた人たちが作ったから「引越村」、そこにあるから「引越坂」。とても素直なネーミングなのに、時代を経るとその由来はまるで分からなくなってしまう。
不思議な名前が残っている
現在、かつての引越村の住所は「南区六ツ川」となっている。この地名は、地域の水田を支えていた溜池(大池・小池)から流れる川の名前から採用された。ちなみに「大池」も平戸桜木道路上のバス停留所として名称が残っている。
「ツ」は大きかったり小さかったりする
横浜にはキニナル地名がたくさんある。次は「井土ヶ谷」と「戸塚」をお伝えする予定なので、今後の調査報告も楽しみに待っていてほしい。
-終わり-