西区御所山に繋がる通称「お化け段々」の由来は?
ココがキニナル!
横浜市西区御所山に繋がる通称お化け段々と呼ばれる階段があるのですが由来は何でしょうか?(ryogo0228さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜大空襲で多くの人が亡くなったことと、構造上子供が遊ぶと危い階段だったので「お化けが出るから遊ばないように」と言ったのが由来のようだ。
ライター:橘 アリー
「へび段々」とも呼ばれていた!?
場所は、西区戸部本町1。
階段の上からは、みなとみらいの景色が見渡せる。
入り口はけっこう狭い
階段下を見下ろすと、一直線の階段ではないようだ。
降りて行くと、また少しした所で階段は折れ曲がっている。
さらに降りて行くと、やっと下が見える。階段の手すりがある部分は途中で終わっているが、その先も階段になっている。
ちょうど降りきった所で、ご近所にお住まいのHさんと出会った。
早速、「お化け段々」の名前の由来について聞いてみると、詳しくは分からないが、昔、この階段で多くの人が亡くなったことがあり、そのことから「お化け段々」と呼ぶようになったらしいということだった。
話しをしていると、家の中からご主人も出てきてくれて、「子供の頃は、“へび”のように折れ曲がっているから“へび段々”って呼んでいたよ」と話してくれた。
確かに、階段はつづら折りになっていて、“へび”が動く様を連想させる。
また、「お化け段々」と呼ばれる説の一つとして、昔は階段と言っても石を積んだだけのものだったので、どれを一段と数えるか、途中で何度も折れ曲がっている事もあり、階段途中のステップも数にかぞえるのかなど、人によって数える段数が違うので、「お化けのような階段」と言ったというものもあるそうだ。
お話からすると、昔のこの階段は、急な傾斜地に石を積んで造ったもので、今のようにきちんと整備されてはいなかった。階段と言うよりも、まさに石の段が続いている「段々」といった様子だったようだ。
それが、「お化け階段」ではなくて「お化け段々」と呼ばれていた理由なのだろうか。
現在の階段を、途中のステップも数に入れ、一番下まで数えたところ、77段あった。
下から見た階段のようす
個人的に「ここにお化けは出たことがあるのか?」とても気になっていたので聞いてみると、お二人とも、にっこり笑って「そんなの出ないよ」と言っていた。
そして、この地域で昔の様子に一番詳しいという人の所へ案内してくれた。
葬儀屋さんの斎場!?
連れて行って貰ったのは、葬儀屋を営まれている河江さんのお宅で、そこの斎場でお話を伺うことになった。
名前の由来について語ってくれた河江昌江さん
河江さんはこの地域で生まれ育ち、今は亡くなられてしまった地域の年長の方々からも昔の様子なども聞き継いでおられる、地元歴史の伝承者である。
河江さんによると、階段が「お化け段々」と呼ばれるようになったのは、1945(昭和20)年5月29日の「横浜大空襲」以降の事で、それ以前は、「へび段々」と呼んでいたそうだ。
なぜ「階段」ではなくて「段々」なのか聞いてみたのだが、昔から「段々」と呼んでいるということだった。
「横浜大空襲」の時、多くの人々が階段を登って山の方へ逃げようとしたが、登る途中に上から火が降りてきたので、登っている途中で焼かれてしまい、階段の上で折り重なるようにして多くの人が亡くなったと言う。
横浜大空襲の様子(横浜市史資料室より)
横浜大空襲の後、この一帯は、一面の焼け野原となってしまった。
一面が焼け野原となった戸部方面(横浜市史資料室より)
また、昔の階段は石を積んだだけのもので手すりも低く50~60cm位の高さだったので、子供がそこで遊ぶと危ないことから、親たちが「あそこは、下を掘ると骨が出てくるとか、人がたくさん死んでお化けがでるから、遊ばないように」と言っていたのが「お化け段々」の名前の由来なのだそうだ。
以前の手すりが、改修後も横に残っている
帰り際に、「お化けは出たことありますか?」と聞いてみたが、やはり、にっこりと微笑まれて「そんなの出ませんよ」と言っていた。
まとめ
地域の人達に親しまれている名前に、このような痛ましい現実が潜んでいたとは思ってもみなかったが、子供たちの身を案じて大人たちが「お化け段々」と言い始めたと言うのだから、その案ずる気持ちの優しさに、確かに、親しみを感じる。
最後に、これは余談だが本当の話。「お化けは出ない」って言ってたのに・・・。取材の次の日の午前2時、今回の取材とは関係ないのかも知れないけど、橘は、不気味なラップ音を聞いてしまった・・・。あれが何だったのか、ちょっとキニナル。
― 終わり ―
そうたグランパさん
2021年12月06日 19時58分
昨日散歩がてら「へび段々」に行ってみました。戦後間もない昭和23年~28年頃御所山に住んでいました。当時は小学校に入る前の幼児でしたが、子供達は「へび段々」と呼んでいました。戸部駅近くに行く時にたまに利用する程度でしたが、子供だけで行く時はやや冒険だったと覚えています。現在と違い自動車事故や誘拐の心配はなく、庶民の子供は歩いて行ける範囲はどこまでも遊びに行っていました。御所山から伊勢町を抜けて野毛山動物園や野毛山遊園地の子供プールも、子供だけで行っていたことを思い出しました。老人の健康のため、市の優待パスも利用して自宅から少し足を伸ばしてみましたが、この階段の呼び名はやはり「へび段々」がふさわしいと感じました。
おぷさん
2019年10月15日 07時18分
私が幼少期に育った町で40年以上前になりますが、記憶ではへび段々を上がった場所にボロボロになった洋館が有ったはずです…誰も住んで居なくて?お化け屋敷のようでした!確か噴水の後もあり…通称アリ地獄だなんて言ってたような気がしますね!
にしくみんさん
2013年07月17日 11時34分
暗くて急で不揃いで「誰でもお通りください」という階段ではありませんでした。その雰囲気が自然に子供にも何かあることを思わせ、無言で鎮魂を伝える階段でしたので、生活に必要な人以外はどうしても通らなければならない時の階段と思っていました。それも明るい時に。夜はおばけが出てもおかしくない空気がありましたから近づいたことはありません。手すりが外から(下から)はっきり見える今と違って、階段の存在自体が崖の家々に隠れて明らかではないのでした。