かつて横浜にあった日本最大規模の貧民街といわれた「乞食谷戸」とは?
ココがキニナル!
横浜市にはかつて、乞食谷戸と呼ばれた大規模なスラムがあったようですが、どんな人がどんな暮らしをしていたのでしょうか。また、今ではどのような街になっているのでしょうか。(みうけんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
明治のころ横浜にやって来た浮浪者がこの南太田周辺に住み、紙くず拾いを始めた。スラム街の状態になったため、公団などにより住居が整備された
ライター:小方 サダオ
くず拾いの仕事と関わる人たちに話を伺う
まずは今でも回収業を続けられている、S・Aさんに話を伺った。
「私の祖父の代から鉄くずなどの回収業をしていました。以前は仕事がありました。紙やボロキレや缶など、何でも売れたのです。また家を解体しても材木からクギからほとんど再利用できて捨てる所がないため、ゴミは少ししか残りませんでした。今では使い捨ての感覚なので、再利用しようという人は少ないです」
S・Aさんの自宅の周辺
「私の祖父は弥平(やへい)といいました。私の生まれた年あたりに亡くなりましたが、父から祖父の話はよく聞かされました。回収業の問屋の仕事をしていて、周囲に数軒の家を持ち、回収業をする人達にタダ同然で住まわせていました。家と言っても小屋のようなものでしたが・・・。おととしも祖父が別荘のように使っていた、1924(大正13)年から建っている家を壊しました。基礎がなく、地面の上にのっているだけでしたが、90年以上建ちつづけていたのには驚きました」
S・Aさんの祖父の葬式の様子を撮った写真
祖父は人が良くてよく保証人になっていたので、損してばかりだったそうです。以前も家の中から"段ボール箱いっぱいの判の押された借用書の山"を発見しました。苦労した人なので"苦しい時はお互い様"の気持ちを持っていたようです。そのせいか祖父の葬式は花輪の並ぶ盛大なものでした。人から好かれていたようで、祖父のことをこのあたりの人に聞くと悪く言う人はいませんでした。
横濱繁盛記には「住民は貯蓄をし杉山神社の祭礼の費用にあて大騒ぎをする」とある
「鉄くず回収に関しては、朝鮮戦争の時は“買い出し”という、鉄くずを買って集めてくる人たちが正月休みもないほどいて忙しかったです。リアカー数十台でリュックサックを背負って出かけていきました。オート三輪を使っている人もいました。そしてここに集まった鉄くずを鶴見の方から、今では大きくなった飯島商店などのお店が回収に来るのです。そこで四角くプレスをされて売られてゆきます」
「1965(昭和40)年過ぎから仕事がなくなり始めました。また1955(昭和30)年ごろから環境事業局というゴミ収集車の乗務員などの仕事が来るようになり、この谷戸からもその仕事をする人が増え始めました。市の仕事だったので、昇級した人は今では立派な家を建てて、それを自慢しに来る人もいるほどです」
地元の有力者・長谷川さんの住んでいたあたり
「ところで、このあたりの有名人だと、1950(昭和25)年ごろですが、この家の裏に長谷川さんという人がいました。字が書けないような人なのですが、談合をまとめたりする仕事をしていました。男気のある親分気質で、当時の市会議員などは頭が上がらなかったそうです。暴力団などにも顔が利いたそうです。普通の住宅住まいでしたが、土地をたくさん持っていました。恰幅が良く着物姿で、運転手付きの高級車に乗っていました。市の仕事の入札時などに、間に入り仕切る仕事をしていました。役人たちも彼の押しの強さに委縮して任せてしまうようです」と話を聞かせてくれた。
つぎに谷戸の入り口あたりに建つ、数棟並んだ平屋建ての一軒の住人Sさんに話を聞いた。
「俺は1954(昭和29)年ごろ九州から来たんだけど、この家の娘と結婚したんだ。その当時60代の義理の母が鉄くずを回収する仕事をしていたよ。自前のリヤカーで、毎日朝早くから夕方6時ごろまで、お得意様を回って電線コードなどのような鉄くずを買って歩いていた。杉田のあたりまで行っていたそうだね」とのこと。
点在する平屋建て住宅の一つ
さらに谷戸の中ほどに住む、T・Iさんに話を伺った。
「私の家族は1931(昭和6)年に東京から来てこの地にたどりついたんだ。私は1941(昭和16)年生まれでここで育った。バラック住まいでね。仕事は紙くず拾いとか久保山墓地のあるお茶屋さんの草むしりとかその日その日の日雇いの仕事だった。通学路の途中に道の両側に同潤会アパートが建ち並んでて、うらやましいと思いながら見ていたよ」
「ここは乞食谷戸って呼ばれてて、たまにほかからやって来て『この辺に乞食谷戸はありますか?』なんて聞いて来るやつがいた。近所の大人が「もういっぺん言ってみろ! このやろう!」なんて怒鳴ると、逃げ帰って行ってたよ」と答えてくれた。
1955(昭和30)年ごろの同潤会アパートの様子
ここで『横濱繁盛記』にある一ノ瀬さんの話に移る。
「一ノ瀬栄吉さんはこの裏あたりに住んでいて、母と付き合いがあった。私も仕事の終わりに人夫を並ばせて日払いの給料を払っている光景を憶えてる。流れ者のような、明日もない人達の便宜を図ってあげるような仕事をする、人情と義侠心のある人だった」
「以前はこのあたりに池があって、それをつぶして製氷会社を建てるという話が持ち上がった。その時は一ノ瀬さんが頭になって、建設を進めた。その仕事をこの付近の住民に振ってくれたおかげで、私たちは経済的に助かったんだ」とのこと。
製氷工場があったあたり
再びくず拾いに話が戻る。
「鉄くず拾いは朝鮮戦争の時は景気が良くなった。この辺の子供は、大体小遣い稼ぎに鉄くずを拾っていたよ。工場の跡地なんかに行くと、整地された土地の泥が、鉄鋼を含んでいたりするんだ。それを“よなげ”というざるですくって、砂金採りのように川の中で振るんだ。すると重いから鉄を含んだものが残る。これを年上のお兄さんやおばさんたちは上手にやっていた」
「戦時中、この先の京急の鉄橋付近にB29が落ちたことがあった。『すごい地響きがした!』と言うんで、みんなで行ってみると、飛行機の残骸が散らばっていた。金属だからみんなしてあっという間にはがして持ち帰ったよ」
「私たちの近所の絆は固かったね。『持ってない人がみそを借りに来たら貸してあげて、こっちがない時は貸してもらう』・・・お互い様だよ。通り沿いには中野さんという、流れ者相手の安い木賃宿をやっている人がいた。子供が2人いたけどどちらも大学出にまで持っていったんだ。立派だよ」
快く取材に応じてくれたT・Iさん
「自分の仕事は車が好きだったからまずは整備士の仕事をした。そして免許を持っていたので、製氷会社でオート三輪に乗って氷を運んだ。そしてある日、氷を買いに来た清掃局の人のすすめで、市役所の清掃局の試験を受けた。ちょうどそのころ清掃局は、機動課をつくり、荷車で回収していたのを車で運ぶように切り替える時だった。数少ない免許を持っていたことが決め手だったのか、一発で受かり、18才の1959(昭和34)年から41年間勤めあげたよ」
「当時このあたりでは、『ペンキ屋じゃなきゃ男じゃない』なんて、私のような勤め人に対していきがっている風潮があったんだ。だけどその後安定性の違いで立場は逆転したけどね」
谷戸には今でも塗装の看板を掲げた家がある
私の親父はゴミ屋だったけど、自分の4人の子どもを立派に育てられたことに誇りを持ってる。1人は今では、狭き門である昇進試験に受かってある区役所の係長にまでなってるんだ。その子には『おまえはこの土地で生まれたということは“度胸がすわった人間”ってことなんだ。もし仕事場でインテリなんかに嫌がらせをされても本音でのぞめば負けることはないんだ』って言って聞かせてるんだ。今ではここで生まれてきて良かったなぁって思っているよ」と話を聞かせてくれた。
谷戸を離れる間際、ふと過去のこの町の姿を知らない、新しい住民はどのように感じているのかが気になった。真新しいお店を構える、O・Fさんに話を伺った。
「9年前からこの町に住み始め、このお店は昨年オープンしました。この町に来たときは、町内会長から『ここは下町だから静かですよ』と言われていた通りで、下町の雰囲気がして大通りから一本入っただけなのに静かだなぁと思いました。元町などより土地の値段が安いのでここでお店をオープンしました」のとこと。
ここで「乞食谷戸」に関する資料をお見せすると次のように答えてくれた。
「そんな呼ばれ方をされていたほどひどい所だったのですか?ちょっとこれからはこの町の見方が変わりそうです。でも特に気にはなりません」とのこと。
町を歩いてみても新興住宅が目立ち、昔の面影はないに等しい。そのせいか取材中、乞食谷戸の話に興味を持つ新しい住民が多かったのは、自分の町の知られざる過去の姿を発見できたからなのだろう。
取材を終えて
取材を続けながら、“男気” “義侠心” “お互い様”など、三楽の姿を思い浮かばせる言葉を多く聞いた。
当時谷戸に集まった人達は、社会というシステムに組み込まれるより、自分の気持ちに素直に生きたい、と言う人たちが多かったのかもしれない。そんな嘘偽りのない本音の生き方が、社会性のある人達からは忌み嫌われる存在となったのではないだろうか?
この谷戸の人たちには、「侠気と稚気、善と悪」の性格を併せ持っていたという、三楽の気質が受け継がれているのかもしれない。
谷戸の方を見つめて建つ三楽像
―終わり―
riceさん
2022年01月02日 01時57分
これは、戦後混乱期の貧困から町のみんなが一生懸命に努力して立身出世して街そのものを立派に変えた誇りの有る物語ですね。すごい。
浜のまささん
2020年12月21日 20時27分
とても興味深く記事を読ませていただきました。生まれ育って30年ほど三春台の南端、庚台と前里町の境に暮らしていました。ルーツはよくわからないのですがおじいちゃん(母の父)は革細工をしていたと聞いています。近くに仲間で提灯屋もいたとか。酒屋(立ち飲み)が家の周りには7件ほどあったのを覚えています。ときわいちばの先のフラワー荘から坂を上がると捺染場があったとおもいます。清水ヶ丘の先にザリガニを取りに行ったのも思い出です。いまはどうなっているんだろう。
片瀬のとび丸さん
2018年03月19日 20時09分
私も元南太田の住民なので、街の歴史をきちんと紹介する記事で好感が持てます。差別だろうとなんだろうと関係なく、街の歩んできた歴史であり、そこに住んでる人たちには故郷であり、無味乾燥な新興住宅地より、よほど文化があるのでは。と思います。これからも鶴見区や神奈川区など、影の側面も持つ街も紹介してください。