かつて磯子区にあった地名「テロフ」ってどんな由来なの?
ココがキニナル!
かつて磯子区に「餓鬼ヶ谷」「テロフ」という耳慣れない地名があったそうですが、地名に「テロフ」ってどんな由来なんでしょう?磯子区史にも全く触れられてません…。(koihigeさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
「テロフ」はその地域が昔、寶生寺というお寺の領分「寺分」であったと考えられ、「てらぶん」→「てらふ」→「テロフ」と変化したと推測される。
ライター:橘 アリー
お寺の領分だった
!?
葛城峻さん
葛城さんを訪ねると、さっそく「餓鬼ヶ谷」と「テロフ」という字名が記載されている地図を見せてくださった。
1920(大正9)年8月10日発行の「横濱市全図」
大正時代には、「餓鬼ヶ谷」や「テロフ」は実際に字名として使われていたようだ。
また、「餓鬼ヶ谷」や「テロフ」の地名の由来について聞いてみると、それらの地名の由来を調べてまとめた資料を見せてくださった。
2008(平成20)年10月に作られた資料「地名でさぐる磯子の歴史」
資料によると、「テロフ」は、ひらがなで書くと「てろふ」であり、「てろふ」は「てらふ」の“ら”が“ろ”に変わっていったもの。「てらふ」とは「てらぶん」のことだと想像できると言う。
「てらぶん」は漢字で「寺分」と書き、「寺分」とは寺の領分のことを言うそうだ。
同じように磯子区峰町にも昔は「ひろふ」という字名があり、これも“て”が“ひ”に変わっていったものと推測されるようだ。なお、磯子区氷取沢町には「寺分」という字名もあったという。
「テロフ」が「てらふ」→「てらぶん」→「寺分」と推測される根拠としては、「テロフ」と呼ばれた地域の近くに由緒のあるお寺が存在するからだそうだ。
今回、調査している「テロフ」の近くにあるお寺は、寶生寺(ほうしょうじ)といい、お寺の現在の所在地は横浜市南区堀ノ内町1-68である。
南区役所のホームページで調べてみると、寶生寺は、平安時代末期の1171(承安元)年に建てられたお寺で、鎌倉・室町時代には、平子氏一族の菩提寺として、また武将の祈願道場として栄えており、江戸時代には、約50箇所もの末寺をもっていたようだ。
寶生寺の様子
50箇所もの末寺をもっていたということは、さぞかし広い領分を所有していたのであろう。
現在は「テロフ」があった地域は磯子区で寶生寺は南区であるが、1927(昭和2)年の町界町名整理の前は、「テロフ」の住所は堀之内町字テロフというものだった。「テロフ」が寶生寺と同じ地域にあったことになる。
一方、「餓鬼ヶ谷」は、「餓鬼」という言葉の意味を考えると諸説あるそうだが、当時の地形から考えると「欠キ谷」つまり、欠けた谷のことを意味していたのではないだろうかと推測されている。
「テロフ」の場所は、現在の滝頭小学校の近辺のようであり、1920(大正9)年の地図によると「餓鬼ヶ谷」は「テロフ」と隣接しているので、「餓鬼ヶ谷」もまたその近辺なのだろう。
「テロフ」と「餓鬼ヶ谷」があったであろう地域の現在の様子
当時は山や谷があったようだが、現在は平地である。
取材を終えて
現在の町の様子からは、「お寺の領分」や「欠けた谷」という名前は推測しづらい。
昔の地名は、その土地の様子を表して付けられていることが多いようだが、年月が経つにつれて町の様子は様変わりしていく。その中で消え行く地名もあるだろうが、その由来を知ることで町の昔の様子を知ることができるのではないかと思う。
― 終わり ―
トムわかさん
2018年02月07日 02時12分
堀割川の掘削であの近辺は変わったでしょうね。そこまで調べていたら、きっと新しい発見があったと思います。
ゆーこさん
2014年05月07日 20時03分
写真は丸山公園だけど、テロフも餓鬼が谷も、もっと万治病院側。私が生まれ育った場所が餓鬼が谷のふもと。全く知らなかったわ。万治病院が当初は感染病研究、隔離病院で、近辺に闇市から発展の市場が多い事考えると、なんかすごくいわくがありそう。
ushinさん
2012年09月24日 21時24分
趣ある良い感じの寺ですね。